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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 謝花翔陽個展『石灰の恋、鶏鳴を背負い』

展覧会『謝花翔陽「石灰の恋、鶏鳴を背負い」』を鑑賞しての備忘録
バンビナート・ギャラリーにて、2020年6月6日~21日。

主に黒を基調とした絵画を紹介する謝花翔陽の個展。

漆芸を思わせる艶やかな漆黒の画面に、色とりどりの線で女性像などが描かかれている。周囲は古九谷のように花々で埋め尽くされる。闇に散らされたグリッターのきらめきが、星々の輝き(宇宙)を思わせる。星空のもとに浮かぶ花々は、沖縄で盛んな電照菊栽培からインスパイアされたのだろうか。
このある種工芸的な絵画の制作に当たっては、まず感情を吐露する言葉を、その感情に結びつけられた色のクレヨンで書き込んでいるという。それらの言葉は黒いクレヨンで塗りつぶされ、その上から「爪」で引っ掻くことで図像を表現し、文字の様々な色味が現れる。最後に樹脂で固めることでイメージが封印されているのだ。
描かれるイメージは多岐にわたり、複雑である。そもそもタイトルからして、謎めいている。「石灰の恋、鶏鳴を背負い」。英題は、"Gypsophila, Dawn of the Dead"。何を意味するのか。
「石灰の恋」については、"Gypsophila"がヒントになる。"Gypsophila"は、花言葉として"everlasting love"や"innocence"を持つ「カスミソウ」を意味するが、その語源は、ギリシャ語の「石膏(gypsos)を愛する(philios)」にある。石灰(CaCO3)と石膏(CaSO4)とで化学組成は異なるが、消石灰(Ca(OH)2)も石膏も壁材などにとして用いられる点では類似しており、ここでは同じものと解して良いだろう。心情を吐露した作品を樹脂で塗り込めているのは、自身の感情を「ギプス(=石膏)」で安定させようとしているのかもしれない。
「鶏鳴」からは、イエスが捕縛される前にペテロ(人名であるが、petro=石に由来する)に対して言った「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」という言葉が思い出される。すなわち「鶏鳴を背負い」とは嘘をついたことに対する呵責の念である。おそらく作者の書き込んだ心情の1つであろう。英題の"Dawn of the Dead"は、ジョージ・A・ロメロ監督の映画『ゾンビ』の原題である。《Untitled(about her)》の女性の胸元のロザリオをキリスト教に結びつけ、「復活」に結びつけるのは曲解に過ぎようか。それでもトマスが磔刑に処されたイエスの復活を信じなかったエピソードを思ってしまうのである。「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。これは、愛する人を信じられなかった自責の念を示唆するのではないか。これがまたクレヨンによって書き込まれた1つの心情であろう。ちなみに、作者は黒い画面のシリーズに「自分自身の構造と同じ」ものを見ており、「最終表面からでは見きることのできない内部構造を持った自分自身の分身を外部に存在させてみ」ているという。作品は作者の「分身」が意図されている。あの「疑い深いトマス」が「双子(Didymus)」(=分身)とされていたことを思えば、この解釈も全くの見当外れとも言えまい。
本展で一番の大作《Untitled (sperker)》は左右2枚組の作品。上部に記されたローマ数字"MCMLXXXVII"はアラビア数字の"1987"であるから、作者の生年を表しており、作品が作者の「分身」であることが宣言されている。中心となるのは、黒田清輝《智・感・情》において「情」と「智」を象徴する女性裸体像。漏斗状の図形が重ね合わされているのは、人体を宇宙(=ミクロコスモス)と見立てた上での「ブラック・ホール」の形象化であろうか。女性像の性器(ないし子宮)へ向け収斂するようだ。周囲にはアルブレヒト・デューラーの《メランコリアⅠ》を連想させる魔方陣(?)や、パブロ・ピカソの《ゲルニカ》に登場しそうな馬、ギリシャの男性神像らしきもの、ギター、陽物などが描き込まれている。ウロボロスや星型などは、会場内に錬金術や竜をテーマにした作品があわせて展示されていることからも、錬金術がモティーフであることに疑いはない。

 『賢者たちのバラ園』の図像は簡素だが、それでも奇異なものと読者の眼には映るだろう。性交と生殖は、錬金術の修辞表現にとってテキストと図像の双方に遍在する要素だ。錬金術は根本的に生成と発生にまつわる実践、つまりなにかを生みだす技であり、生殖との比較は適切なのだ。錬金術の目的は既存の物質をさまざまに結合して新しい物質や特性を生み出す点にあるが、それは両親の結合から子孫が生みだされるのと似ている。性行動とは人類が共有する普遍的な体験であり、誰にでも理解できる比喩の豊かな源泉となる。ふたつの物質が反応して第三のものを生じるという考えや光景は、比喩を紡ぐことに慣れた想像力ある人間に男女のペアを想起させる。現代の化学者たちも頻繁に、たがいに反応する物質を作用しあうペアとして描きだす。それはもはや水銀と硫黄ではなく、酸とアルカリや酸化剤と還元剤などだ。これらの現代的なペアの幾つかは、語源にも性的なものを内包している。たとえば「求電子剤」electrophileや「求核剤」nucleophileという用語は、「愛する」「キスする」「交合する」を意味するギリシア語の動詞phileinを基礎にしている。(ローレンス・M・プルンチーペ〔ヒロ・ヒライ〕『錬金術の秘密 再現実験と歴史学から解きあかされる「高貴なる技」』勁草書房/2018年/p.109)

デューラーの《メランコリアⅠ》の憂鬱、ピカソの《ゲルニカ》の憤怒や悲痛など「情」を象徴する図像と、魔方陣(数理)やギター(音楽=秩序)、神像など「智」を象徴する図像。ウロボロスやミクロコスモス(身体)、性器などの図像は、「情」と「智」とを結合させる役割を果たすと共に、身体と宇宙や、作品と作者との一体化が目論まれている。すなわち、「既存の物質をさまざまに結合して新しい物質や特性を生み出す」錬金術としての絵画なのだ。クレヨンと樹脂という既存の物質を用いて生み出された技法は、錬金術そのものである。