可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 長沢明個展『アカシアの記録』

展覧会『長沢明展「アカシアの記録」』を鑑賞しての備忘録
日本橋高島屋美術画廊Xにて、2020年6月3日~22日。

パネルに貼った寒冷紗に石膏や土を載せ岩絵具で描画した壁画調の絵画を中心に、本にコラージュを施した「BOOK SERIES」を合わせて紹介する、長沢明の個展。

展示室の一番奥の壁面に展示された、縦横ともに約2.5mの《ハジマリノ雫》の中央には、黄色い楕円の台の上には頭部のない人物が横たわる様が黄味を帯びたシルエット――アンリ・マティスの《ジャズ》を思わせるような切り絵のようなシルエット――で描かれている。その上に二本足で立つオオカミらしき獣がいるのだが、その頭部は切断されてしまっている。毛並みが描かれ、驚いたような表情もはっきりと見て取れる。その頭部は、青いシルエットで描かれた人物と獣が片手ずつを差し出して持ち上げている。獣の胴体の切断面からはミルクのような液体が溢れだして滴り落ち、足下に転がる頭部のない人物にかかっている。青いシルエットの人物の身体の中には獣の姿が、青いシルエットの獣の身体の中には人の姿が描かれ、シルエットの人物の口からは、シルエットの獣に言葉を投げかけるような「吹き出し」が出ている。周囲を取り囲むのは鳥や植物だ。星の瞬きを連想させるダイヤ状の光も描き込まれている。
冒頭に展示されている《マザームーン》から、獣が自らの身体を子どもに提供する場面、ある種の供犠が描かれている。壁画を思わせる画面、シルエットのように単純化されたモティーフとが相俟って、一連の作品から「神話」的な世界への想像を駆り立てられる。《ハジマリノ雫》では、「頭部の切断」により供犠としての性格が、タイトルにより創世の物語であることが、明快に打ち出されている。
とりわけ着目したいのは、人物と獣との相互関係である。シルエットの人物と獣がお互いに獣と人物とを内部に取り込んでいる。頭部を切断された獣の足下には頭部のない人物が倒れている。人と獣との互換可能性ないし互換性である。次に着目すべきは、人物から出ている「吹き出し」であり、さらには、光の存在である。これらの要素から、《ハジマリノ雫》は言語の誕生を描く神話と考えられる。

 かりに人類に何か新しさがあるとすれば、それは、光のスイッチが入った――すなわち視覚の次元がもたらされた――数億年の後に、その必然的な帰結として言語現象を体現するにいたったところにあるということになるだろう。光のスイッチの後に、言語のスイッチが入ったのである。光のスイッチが入って世界に一挙に色彩が溢れかえったように、言語のスイッチが入って世界に感情と思想が溢れかえることになった。とりわけ不安という感情と、真理という思想が、現生人類に独特なものとして登場した。
 これらの全体が、おそらく、脳中に俯瞰図を作成する能力とともに起こったのだ。

 繰り返すが、言語現象に不可欠なのは、相手の身になること、そしてその相手と自在に入れ替わるために、自他をともに一望する俯瞰する眼を持つこと、この二つである。俯瞰への意志が一方では鳥を生み、他方、飛べないものではそれが、脳中に俯瞰図を作成する能力として展開してきたのだと考えることができる。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.422)

画面の上方には、星の瞬き(=ダイヤ)を運ぶ黒い鳥の影があり、シルエットの人物にくちばしでつつこうとしている。「光のスイッチが入」り、「視覚の次元がもたらされ」ることを象徴している。視覚が可能にするのは、「相手の身になること」であり、「その相手と自在に入れ替わる」ことである。例えば、鷹が兎を追うとき、鷹が「俯瞰」して兎の行動を予測するとともに、兎もまた鷹の眼(=俯瞰)を想定して逃げる。シルエットの人物と獣とが相互に体内に獣と人物とを入れ合っているのは、「俯瞰する眼を持つこと」を表現しているのだろう。

 言語は相手の身になることができができなければ成立しない。向き合った人間と、瞬間的に互いに向きを変え位置を変えることができるようにならなければ成立しないのである。これは、言語をして世界を捉えるための恣意的な網目と考えるソシュールの考え方の、あるいは、人間はすべて普遍文法を備えて生まれてくるとするチョムスキーの考え方の、そのまたさらに前提となるはずの問題である。なぜなら、相手の身になるということは、言語以前の現象として動物の世界に広く見られるからである。言語はその能力を対象化することによって――つまり物質化し象徴化し記号化することによって――ほんらいは適用されないところにまでその機能を拡げてしまったにすぎない。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.77)

シルエットの人物の「吹き出し」が表すのは、「相手の身になること」を「対象化」したことを象徴する。この説明には牽強附会のきらいがあるとするなら、切断された獣の頭部に蝿がとまっている点に注目しよう。

 見ると言う行為がはじめから俯瞰する眼をともなっていたということ、つまり、見ることが完全に遂行されるためには、現に見ているという行為をさらに見ることが必要とされ、現に見ている以上、すなわち「離見の見」(世阿弥)もまたともに実現されているのだということは、見るということにははじめから共同性の次元が付与されているのだということを意味している。また、現に見ている次元のひとつ上の次元とでもいうべきもの、それこそ超越論的とでもいうほかない次元が、あらかじめ設定されていたのだということを意味している。これは要するに意識の発生と同じことだが、それこそ言葉が登場し、呪が登場する次元にほかならない。呪は、因果関係の意識として科学の先蹤とされるが、むしろ重要なのはこの「次元の感覚」とでもいうべきものだったように思われる。それを、「見えないものへの感覚」と言い換えてもいい。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.217-218

「言葉が登場」する次元に達するには、「超越論的とでもいうほかない次元」にたどり着かねばならない。換言すれば、「現に見ているという行為をさらに見ることが必要」なのである。これを可能にするのが、蝿の視点なのだ。転落していく馬車を尻目に悠然と飛び去っていった、あの横光利一の蝿こそ、超越論的次元の眼差しを与えてくれる存在だろう。

 馬車は崖の頂上へさしかかった。馬は前方に現れた眼匿しの中の路に従って柔順に曲り始めた。しかし、そのとき、彼は自分の胴と、車体の幅とを考えることは出来なかった。一つの車輪が路から外れた。突然、馬は車体に引かれて突き立った。瞬間、蠅は飛び上った。と、車体と一緒に崖の下へ墜落して行く放埒な馬の腹が眼についた。そうして、人馬の悲鳴が高く一声発せられると、河原の上では、圧し重なった人と馬と板片との塊りが、沈黙したまま動かなかった。が、眼の大きな蠅は、今や完全に休まったその羽根に力を籠めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいった。(横光利一「蝿」同『日輪・春は馬車に乗って 他八篇』岩波書店岩波文庫〕/1981年/p.37-38)

「ハジマリノ雫」とは言葉のことであったのだ。