展覧会『第15回 shiseido art egg 第3期 中島伽耶子「Hedgehogs」』を鑑賞しての備忘録
資生堂ギャラリーにて、2021年11月23日~12月19日。
2006年から行われている、新進作家による資生堂ギャラリーを会場とした展覧会企画公募プログラム「shiseido art egg」の入選者展。応募企画案243件から選出された3つの展覧会を連続して実施する、その第3期は、中島伽耶子の企画による「Hedgehogs」。ドアが設けられながら閉ざされた建物の壁で仕切り、展示空間に内と外とに分断する試み。
会場は、9.2m×9.4mのほぼ正方形の床面を持つ空間と、7.1m×6.3mの床面の空間とが、それぞれの床面の1つの頂点を共有するように接続されている。天井高は5.6mあるが、小さい空間の2辺には階段の踊り場が被さっているために高さが2.5mとなっている。広い方の空間の対角線と直角になるように、狭い方の空間と接続する角から4分の1ほどの位置に壁が設置されている。床から天井近くまで優に5.4mはありそうな壁である。暗さのために判然としないが、暗いモスグリーン(?)の地に草花と蝶や蜻蛉を灰色(?)で表した壁紙が張られている。木製の扉が設置されているが、閉ざされている。鋭角三角形(あるいはその鋭角が断ち切られたような四角形)の厚さ1cm程度の透明なアクリル板が60枚程度、壁のスリットから差し込まれ、壁の向こう側の光をその断面(3辺ないし4辺)を通じて暗い壁の中にもたらしている。アクリル板の面は他のアクリル板の輝きを反射し、さらにそれらの光が床面に映り込んでいる。闇の中に射し込む光という点では希望を感じさせる。だが、それと同時に、アクリル板の形の鋭利さ、そしてその密集が、タイトルに掲げられた「ハリネズミ(Hedgehogs)」の刺々しい針を連想させる。壁の反対側を見るためには、階段の踊り場に向かわなくてはならない。狭い方の展示空間(ホワイト・キューブ)の白い壁の間、すなわち2つの展示空間(ホワイト・キューブ)の接続部の奥側に、白い壁が聳えている。木製の扉の脇には傘の付いた玄関灯が設置されている。壁には透明なアクリル板が刺さっている。踊り場の中央には、呼び鈴のスイッチが置かれていて、それを押せば、けたたましい音が場内に鳴り響く(田中敦子の作品を想起させる)。但し、ベルが設置されているのは、白い壁の向こう側ではない。踊り場から近い、狭い展示空間の床面である。
白い壁面側の扉の脇には玄関灯が設置されていることから白い壁の側が「外」であり、壁紙が貼られている壁面が「内」である。だが、白い壁は、会場であるホワイト・キューブの壁面に近しいため、「内」と評価することもできる。他方、壁紙のデザインが草花や昆虫であることを考えれば、それに「外」のイメージを読むことが可能である。壁の「内」と「外」とは容易に反転するのだ。
ところで、作家は、「『Hedgehogs(ハリネズミたち)』というタイトルは、壁に刺さるアクリルの板がハリネズミの針に似ていることと、寓話から生まれた「ハリネズミのジレンマ」という言葉からと」ったという。すなわち、アクリルの針が刺さった壁はハリネズミであり、なおかつ人である。ならば、壁は皮膚であり、身体ということになろう。
従って、「内」と「外」とが容易に反転する壁とは、身体と世界との反転可能性の象徴と捉えることが可能である。
触れるというのは、触れるものではない触れられるものとのその隔たりのなかで、はじめてそれとして生起する。その触れるものが触れられるものによって触れられるというのは、触れるものが触れられるもののあいだに位置をもつということである、。ということは触れるものはつねに同時に触れられるものでもあるということである。触れられるものどうしの触れあいとして触覚は起こるわけだ。いいかえると、触れるということは、触れるものが触れられるものであるということを裏面としてもつわけで、そのかぎりで可逆性が触れることを可能にしているのである。
おなじことは見ることについてもいえる。触れるものが、触れられるものであるということを裏面としてもつように、見るものは見えるものでもあるということを裏面にもつ。
このように、あるものが、折り返された事態をみずからの裏面として含みもつこと、いいかえると、触れるものが触れられるものであり、見るものが見えるものでもあろいったこの折り重なりの出来事、それがメルロ=ポンティのいう〈肉〉である。〈肉〉とはこのように感じるものが感じられるものであることから、したがってまた「感じられること」そのことであるともいわれるわけである。
(略)
ここでわれわれは、自分が見ているものを「おのれの見る能力の裏面」として認めている。その意味で、わたしの身体と世界はおなじ〈肉〉でできているといわれるわけであり、両者が越境と跨ぎ越しの関係といわれるわけである。あるいはまた、わたし自身の可視性が見えるものすべてにまで延長されてゆくこのような出来事を、あらゆる視覚のもつ根源的な〈ナルシシスム〉であると規定している。こうした反転、自分をみつめる自分を見るナルシシスムは、〈鏡〉の現象としても規定される。「肉とは鏡の現象であり、鏡とはわたしの身体にたいするわたしの関係の拡張なのである」、と。
見る身体と見られる身体、触れる身体と触れられる身体へと切開され、さらに重ねあわされ、反転させられるこのプロセスを、メルロ=ポンティは「裂開(déhiscence)」とよんでいる。このような裂開のなかで、われわれが物のなかへ移行するのと同様に、物がわれわれのうちに移行するのである。(鷲田清一『現代思想の冒険者たち Select メルロ=ポンティ 可逆性』講談社/2003年/p.368-269, p.271)
壁に刺さったアクリル板は、「われわれが物のなかへ移行するのと同様に、物がわれわれのうちに移行する」様を表現したものと解釈することができる。
また、壁際の床にはアクリル板が床に散乱している。射し込んだアクリル板が落下したように見える。以前に射し込んだ「光」のように解される。すなわち「かつて」と解し得る。
『知覚の現象学』においてメルロ=ポンティは、客観的な時間の規定も、体験される意識の主観的な時間の規定もともに排して、時間は「物にたいするわたしの関係から生まれる」としていた。存在が時間的なものであるために不足しているのは、現在ではなく「かつて」とか「明日」といった非現在(=不在)としての「非存在」である。
時間はこのような非存在を内臓してはじめて「流れる」。「過去は過ぎ去ってしまっているわけではないし、未来は未だ来ないでいるわけではない。過去と未来は主観性が即自存在の充実を打ち砕き、そこに遠近法的展望を浮かび上がらせ、非存在を導入するときにのみ存在する。過去と未来は、わたしがそれらへむかって自己を押しひろげるときに湧出するのである」。
このように現在を炸裂させて、時間を非存在へと押しひろげてゆくもの――脱自(ex-sistance)、それが主観だとメルロ=ポンティはいう。主観はだから時間的なものでありながら時間のなかにあるのではなく、むしろ時間を出現させるものであり、そのような時間を創始する時間としてそれは「構成する時間」であるとされる。そしてそのような主観としての特異な時間性を「自己による自己の触発」と規定する。この「現象としての自己を自己自身へと構成する」(フッサール)流れとしての時間性、「現在の未来への炸裂ないし裂開」こそが「自己の自己への関係の原型」であるとされ、それこそ「内面性(initériorité)ないし自己性(ipséité)を素描する」といわれる。(鷲田清一『現代思想の冒険者たち Select メルロ=ポンティ 可逆性』講談社/2003年/p.280-281)
アクリル板の象徴する「光」の落下が示す「かつて」を出現させる壁は、主観であり自己であると言える。そして、展示空間すなわち作品を眺める階段の踊り場に鑑賞者が立つとき、鑑賞者は自己を俯瞰する眼となる。
見るという行為ははじめから俯瞰する眼を必要としてたということ、そうでなければ見るという行為そのものが意味をなさないということ、ことのことは、動物といわれるものが何かを見るにあたってそれを遂行するためにさまざまな工夫をすでに行なっている――そのように器官が動くようになっている――ことを思えば、必ずしも奇異なことではないと思われる。
(略)
見るという行為がはじめから俯瞰する眼をともなっていたということ、つまり、見ることが完全に遂行されるためには、現に見ているという行為をさらに見ることが必要とされ、現に見ている以上、いわば「離見の見」(世阿弥)もまたともに実現されているのだということにははじめから共同性の次元が付与されているのだということを意味している。また、現に見ている次元のひとつ上の次元とでもいうべきもの、それこそ超越論的とでもいうほかない次元が、あらかじめ設定されていたのだということを意味している。これは要するに意識の発生と同じことだ(略)(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018年/p.216-218)
鑑賞者が踊り場に設置されたスイッチを押すと、けたたましい音が会場内に響き渡る。踊り場近くの狭い展示室の床に設置されたベルが発した音は、壁の向かい側にも伝わっていく。スイッチを押すのが「俯瞰する眼」=「自己」であるなら、それによって鳴らされたベルは現在の「炸裂」であり、「自己」でもある。ベルの音が響き渡ることは「自己を押しひろげる」ことである。そこに脱自(ex-sistance)としての「主観」が現れる。