可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 櫻井あや乃個展『同じ海から』

展覧会『櫻井あや乃「同じ海から」』を鑑賞しての備忘録
KATSUYA SUSUKI GALLERYにて、2024年4月27日~5月6日。

人の姿や顔を表わした絵画15点とアニメーション作品1点とで構成される、櫻井あや乃の個展。

《意思疎通》(273mm×220mm)の灰青の画面は横方向の描線と滲みとによって水中のようである。そこに青い線で輪郭と目・鼻・口を単純かつ曖昧に表された向かい合う2つの顔が描かれている。意思疎通とは同じイメージの共有である。2つの似たような顔はまさにイメージの共有のメタファーであろう(《ふたり》(140mm×180mm)では、白い画面に線対称のように向かい合う人物が描かれるのも、同じく意思疎通を主題とした作品とも解される)。作家は鑑賞者に対し、顔ないし身体、すなわち人形(ひとがた)を用いてコミュニケーションを図ろうとのメッセージを発しているのである。

表題作《同じ海から》のほぼ正方形の画面(1660mm×1700mm)には藍色の暗い海面から姿を現わした朱色の身体が描かれる。海は横方向の藍色の描線を重ね、部分的に白い線が入れられることで表わされる。手前(画面下部)の身体が出る辺りには白の波線も加えられている。身体は腰の辺りから首の部分までが朱色の輪郭線で表わされ、全体には朱色が海が透けるように薄く刷いてある。朱の身体の中央には、フルフラットのリクラインイングシートに横たわるような――ごく緩やかな、3乗の係数が正の三次関数のグラフのような――小さな人がクリーム色で描かれる。人と言っても、頭部を区別するのは顎の部分の括れと鼻の僅かな突起、それに目を表わす点であり、あとは足先の表現がある程度のイモムシのような形状である。その周囲は明るい朱で囲まれて、暗い海面との対照により、発光しているように見える。朱の身体を生み出す揺り籠ならぬハンモックとして人のイモムシ的形象がある。そしてそれらが海の中に描かれるのは、生命が海に由来することを表すのだろう。

 海岸で海をみつめていると、なぜかなつかしい気持ちにならないだろうか。生命は海から生まれた、ということは広くいわれている。生命起源研究の扉を開けたオパーリンやホールデンも、海の中での物質の進化から生命が誕生したと考えた。実際に地球生物の細胞内には、ナトリウムや塩素など、海水中に多く含まれる元素が多く含まれている。また、生命の進化をみても、初期の生物進化は海の中で起こり、地上に生物が進出したのは、たかだか4億年前である。それ以前の陸上は、オゾン層がなかったため、強烈な太陽紫外線が降り注いでおり、生物はおろか、生物の材料となる有機物すら安定して存在できなかっただろう。海水は、最初の生命の材料を供給するとともに、危険な紫外線をカットすることにより、初期の化学進化や生物進化を見守る母のような存在だった。(小林憲正『宇宙からみた生命史』筑摩書房ちくま新書〕/2016/p.77-78)

《同じ海から》と向かい合わせに展示されているのが《山になる》(1120mm×1940mm)である。仰向けに横たわっていた人が膝を立て、ゆっくりと上半身を起こす様子が、暗い赤紫の影の全身、藍色の輪郭線による上半身と脚の上側、淡い灰色の影の全身、朱色の顔により異時同図として表されている。背景は白を中心に青味や赤味が差してある。奥(画面上部)に見える白い幅のある曲線は、タイトル「山になる」から推せば、2つの峰とそれを繋ぐ緩やかな山稜であろう。海と対になる山の作品では、人が「山になる」姿が表されることになる。山の起源を神話として描き出す意図があるのかもしれない。
暗い桃色の画面に白い線で上半身を起こした人物を描いた《生える》(273mm×220mm)と併せて見れば、生命の誕生のメタファーとも解される。誕生を表す《同じ海から》との対称性を強調すれば、青山(せいざん)という言葉もあることから、逆に死を表現している可能性も捨てきれない。

《底》(455mm×380mm)には、暗い藍色で表した水の底に、チョーク・アウトラインのような人形(ひとがた)がエメラルドグリーンで配されている。やや明るい上部には、エメラルドグリーンの線でごく簡素に頭部が表されている。水底の人形を水の上から覗き込むようだ。生命の起源を辿っているなら《同じ海から》に、死の淵を覗き込むのなら《山になる》に通じよう。また、顔と人形(ひとがた)とは見ることと見られることとのアナロジーである。《意思疎通》や《ふたり》の「似た者同士」は実物と鏡の虚像とも解される。見ることと見られることとは反転する(同じである)という、作家の視覚に対する関心が示されていると言えよう。
《逃亡》(220mm×273mm)には駆け出す身体から切り離された頭部が遙か後方から走る自らの身体を眺めている姿が描かれている。「生命は眼の獲得と同時に、自分から離れることを強いられ」た結果、「この距離、この隔たりが、精神といわれるもの、霊といわれるものの遠い起源であること」であり、「私とははじめから、相手のこと、外部のこと」であること(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.206参照)の絵解きのようである。

 見えるものがわたしを満たし、わたしを占有しうるのは、それを見ているわたしが無の底からそれを見るのではなく、見えるもののただなかから見ているからであり、見るものとしてのわたしもまた見えるものだからにほかならない。1つ1つの色や音、肌ざわり、現在と世界の重み、厚み、肉をなしているのは、それらを把握している当の人間が、自分をそれらから1種の巻きつき(enroulement)ないし重複(redoublement)によって出現してきたもので、それらと根底では同質だと感ずることであり、かれが自分に立ち返った見えるものそのものであり、その引きかえに見えるものがかれの眼にとってかれの写しないしかれの肉の延長のごときものとなることなのである。(VI〔引用者註:モーリス・メルロ=ポンティ滝浦静雄木田元〕『見えるものと見えないもの』〕 158)

 ここでわれわれは、自分が見ているものを「おのれの見る能力の裏面」として認めている。その意味で、わたしの身体は世界とおなじ〈肉〉でできているといわれるわけであり、両者が越境と跨ぎ越しの関係といわれるわけである(VI 364)。あるいはまた、わたし自身の可視性が見えるものすべてにまで延長されてゆくこのような出来事を、あらゆる視覚のもつ根源的な〈ナルシシスム〉であると規定している。こうした反転、自分を見つめる自分を見るナルシシスムは、〈鏡〉の現象としても規定される。「肉とは鏡の現象であり、鏡とはわたしの身体にたいするわたしの関係の拡張なのである」、と。
 見る身体とみられる身体、触れる身体と触れられる身体へと切開され、さらに重ねあわされ、反転させられるこのプロセスを、メルロ=ポンティは「裂開」(déhiscence)とよんでいる。このような裂開のなかで、われわれが物のなかへ移行するのと同様に、物がわれわれのうちに移行するのである(VI 171)。とすれば、見るのはわれわれ主体だけではない。すべての見られるものはまた見るものでもあることになる。(鷲田清一現代思想冒険者たち Select メルロ=ポンティ――可逆性』講談社/2003/p.270-272)

「すべての見られるものはまた見るものでもある」。全ては「同じ海から」発しているのである。