可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『Sustainable Sculpture』

展覧会『Sustainable Sculpture』を鑑賞しての備忘録
KOMAGOME SOKOにて、2020年12月11日~12月25日。

表現の持続可能性をテーマに14名の作家の彫刻作品を展観。

エントランスには、二藤建人が天井と2階ベランダとのつがなりを活用した《真空の穴》。1階は、折原智江の映像と立体作品から成る《線香の松》、入江早耶の軸装を元にした立体作品《鯉ノチ五頭龍ダスト》、七搦綾乃の木彫《rainbows edge XI》、大野綾子の石彫《沢山のごちそう》・石と波板から成る《ひだりおくから,わたし,おと。》、宮原嵩広の石を用いた立体作品《Block sculpture 閉塞する石》・《Null pointer exception》・《It doesnot wake yet.》・《It does not walk yet.》・《It does not float yet.》、鯰の映像と作中に登場したコンロから成る《B. B. Q.》、永畑智大のインスタレーション《ワークインプログレスな天使たち》。階段脇に竹内公太の写真作品《コラージュ 01》・《コラージュ 02》。2階には、石黒健一の映像作品《石貨の島と我が彫刻》・《Interview with Theodre Return and Su》、竹内公太の映像作品《ある公共彫刻について》、髙橋銑の香りを用いた作品《Sacrificial Corrosion》、西澤知美の立体作品《Lip Gloss》と写真作品《Immersion》・《Surface》・《Laboratory》、大崎晴地のインスタレーション無人スペクトラム》、毒山凡太朗の映像作品《Public recording》と梱包作品《Public archive Censored box》。

折原智江《線香の松》は、松の老木と若木とを白い土地に対峙させる白砂青松を表す盆栽型作品。松樹は線香の原材料を湯で練り上げて、白砂は香炉灰を固めて、それぞれ作られている。松自体が「相生の松」ではないし、「高砂」の留守模様となる熊手と箒も存在しない。その不在と相俟って、常緑の松でさえ枯れ朽ちると「メメント・モリ」を訴える作品であることが、仏壇の香炉に立てられた線香製の松が燃え尽きる様を捉えた映像からも窺える。全ては朽ち果てるという主題は、七搦綾乃の朽ち木を表す無数の穴が穿たれた木彫《rainbows edge XI》に通じる。
入江早耶の《鯉ノチ五頭龍ダスト》は、掛軸に描かれた5匹の鯉を消しゴムで消し、その消し滓を素材に制作した五頭の龍の塑像を画面に貼り付けたもの。竜門を登った鯉が龍と化すように、描かれた図像(平面)から塑像(立体)へ、視覚から触覚へ、廃棄物から作品(消し滓のリサイクル+軸装された絵画のリユース)へと変転する。
宮原嵩広の《It doesnot wake yet.》は、石に映像ケーブルを挿し、受信した信号を壁にプロジェクターで投影しようとする作品。壁面には"NO SIGNAL"の表示。あらゆる事物には霊魂が宿るとするアニミズムが「科学」によって否定される(=NO SIGNAL)状況を示す試みであろうか。何の変哲も無い石ころであっても、形成されるにはどれだけの時間がかかっただろうかと、今ここに在るまでに至った歴史に思いを馳せる企てであろうか(それは同時に、歴史を軽視する風潮への揶揄とも解されよう)。いずれにせよ、声を上げられない存在に対して耳を澄まそうとする真摯な姿勢が表された作品である。
大野綾子の《ひだりおくから,わたし,おと。》は、川で拾った石を左上に、それとやや離して加工した大理石を下部に取り付けた波板を壁面に設置する。川の流れを波板で、石を水で表す一種の枯山水であるが、水平ではなく垂直に展開することで重力という下降運動が強調されている。結果、波の形に音(=波動)のイメージを響かせつつ、生命の脈動やその伝導(継承)がよりくっきりと浮上した。
鯰の映像作品《B. B. Q.》は、川縁にいったんは小屋を建てながら、バーベキューを行ったり暖をとったりするために、その小屋の建材をコンロで燃やさざるを得ない状況を映す。"B. B. Q."とは、"Burning Barn Qestion"、すなわち「納屋を燃やす問題」ということか。川の対岸に立つ工場の煙突とコンロの煙突との相似を映し出すことで、鑑賞者に一瞬にして環境問題を悟らせる手際が見事。環境問題を解決するには、人間の存在の消去が最も効率的であると計算してしまうAIの「フレーム問題」を描く要素もあるかもしれない。
永畑智大の《ワークインプログレスな天使たち》は、3本の樹木が、ハンマーを加えた頭部だけの天使たちによって伐採されていく様を表すインスタレーション(近くの壁面に同じテーマの絵画も掲げられている)。刷毛を加えてペイントしている天使もいるため、樹木を生み出した上で伐採している場面と捉えるのが正確だろう。「ワークインプログレス」という言葉には、「ログ」(log=薪)が組み込まれている(カタカナ表記でのみ通用する話だが)。鯰が自ら建てた小屋を解体する状況に密接に呼応している。ところで、天使を表す"angel"が「伝令(αγγελος)」に由来することに着目すると、言葉に関する作品となる。実際、天使たちは樹木を解体してログ(log=logue)を生み出しているのだ。世界を切り分けるのが言葉=ロゴス(λόγος)である。「ヨハネによる福音書」には、「初めにλόγοςがあった。λόγοςは神と共にあった。λόγοςは神であった。」(第1章第1節)とある。古典ギリシア語の"λόγος"は英語に入って"logue"となった。世界を理解しようと常に言葉を生み出していく営為(work in progress)こそが作品の主題として立ち現れる。
竹内公太の映像作品《ある公共彫刻について》は、ラブドールに空気ではなくモルタルを注入して彫刻を制作し、野外に設置した過程を撮影した映像を逆再生したもの。息=プシュケー(Ψυχή)を吹き込むことによってラブドールは魂=プシュケー(Ψυχή)を手に入れる。空気を抜かれても再度空気を入れることによって再生する。それならば、モルタルを詰められたラブドールは死した後、縮むこと無き標本となるのだろうか。性欲処理のための玩具から解放され、聖化されることはあるのだろうか(生贄=sacrificeと捉えるなら神聖さが潜んでいよう)。生から死へ、私的領域から公共空間へ。両者を映像により接続して見せることで、公共空間にある女性裸体彫刻にオルタナティヴな視点を投げかける。
西澤知美の《Lip Gloss》は化粧品のリップグロスと医療機器の注射器とを重ね合わせることで、両者の共通点と差異とを際立たせる。
大崎晴地の《無人スペクトラム》は、ディスプレイに表示されるロックダウンした都市の鉄道のダイヤグラムと斜めに立てられたベッドのマットレスの模様とが相似を描いている。公共空間から個人の住居への人間が移転させられるように、網目模様が転写される。もう1組は、観葉植物の植木鉢と植物模様の織られた絨毯であり、そこにも植物の形の転写の関係がある。室内に置かれた植木は外出を自粛する人の姿であり、壁に掛けられた敷物としての絨毯が価値の転倒を表す。
毒山凡太朗の立体作品《Public archive―Censored box》は公共彫刻のスキャンデータを3Dプリンタで出力した立体作品を梱包した段ボール箱。鑑賞者は箱の中身を取り出すことはできないが、箱に印刷されたQRコードを介して3Dデータを取得できる。誰もが私有できる彫刻とは、究極の公共彫刻と言えよう。髙橋銑の《Sacrificial Corrosion》は香りによる作品。香りを感じるということは、化学物質の分子を受け取っているということであり、鑑賞者が作品を受け取るという点で、毒山作品との共通点が認められる。さらに、石黒健一の映像作品はヤップ島の石貨という流通する彫刻を扱う点で、毒山作品・髙橋作品と彫刻の私有・共有・流通という問題意識を共有しているとも言える。
二藤建人の《真空の穴》は、エルネスト・ネトの作品を想起させる布地に入った石膏彫刻が天井から垂れ下がる。天井は2階ベランダとなっており、布内と同様の彫刻がそこにも設置されている。AとA'のように彫刻を示すことで、もともと彫刻が有している作品鑑賞における移動の必要性という時間の性格が強調されるとともに、上昇や下降といった重力に抗しあるいは重力に従うといった現象が明らかにされる。結果として、彫刻が二足歩行する人間に近しい存在であることを鑑賞者に実感させるだろう。