可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 小林聡子個展『コクーン』

展覧会『小林聡子「コクーン」』を鑑賞しての備忘録
藍画廊にて、2021年4月26日~5月8日。

ボール紙を格子棚のように組んで油絵具で着彩した作品6点と、矩形を緻密に描き込んでいった「方眼紙」のような水彩画2点で構成される、小林聡子の個展。

格子棚タイプのシリーズは、短辺を30mmに裁断したボール紙を直交させて、長方形を縦横6マスずつ組んだもの(2点)、長方形を縦横5マスずつ組んだもの(2点)、正方形を縦横8マスずつ組んだもの、正方形を14マスずつ組んだものから成る。作品により濃淡の差があるが、白みの強い青の油絵具が全面に塗られている。一番大きな作品(14マス)に限っては、全面ではなく格子の四隅を中心に塗ることで、地の茶色がかった灰色が覗いている。作品は鑑賞者の目線の位置かやや高い位置に置かれ、正対すると、格子がわずかに傾いでいることが分かる。その歪みは、絵具の塗り斑と相俟って、大量生産される規格品に対する職人の手業を想起させる。あるいは歪みには、17世紀の織部の茶陶から22世紀の「ドラえもん」へと連綿と受け継がれる嗜好を見ることもできよう。また、格子(グリッド)自体の有する、「一方で物質と、他方で精神と結び付く」両義的な性格や、「遠心的もしくは求心的な存在のいずれを」も予示する分裂症的性格の間における「揺れ」そのものを見出すことも可能であろう。

 グリッドの先例を見つけるためには、美術の歴史を長くさかのぼらなければならない。15・16世紀の、透視画法についての諸論文や、ウッチェッロやレオナルドやデューラーによる精巧な研究にまで行き着かなくてはならないのだ。そこでは透視画法のラティス(碁盤目)は、描かれた世界のなかに、その組織の仮枠として刻印されている。だが透視画法の研究は、グリッドの真の先例ではない。透視画法は、結局のところ、現実に関する科学だったのであり、そこから退出するための方法ではなかった。透視画法は、現実とそのリプレゼンテーション(再現=表象)が互いにマップ(写像)されうる仕方、描かれたイメージとその現実世界にいおける指示物と互いに実際に関係し合う仕方――前者が後者についての認識の一形式であること――を証示したのである。あらゆる点でグリッドは、こうした関係に対立し、最初からそれを断ち切るのだ。透視画法と異なり、グリッドは、室内や風景や群像の空間を画面にマップ(写像)するわけではない。実際、それがなにかをマップ(写像)するとすれば、それは画面それ自体をマップ(写像)するのである。それはそこにおいてなにものも移動することのないトランスファー(転移)なのだ。言うなれば、表面の物理的諸特性が、同一表面の美的次元へとマップ(写像)されるのである。しかも、これらの二つの面――物理的な面と美的なそれ――は、同一の面であることが証示される。両者は、同一の広がりを持ち、グリッドの縦横の座標によって、同等であるからだ。このように考えられるなら、グリッドの根底は裸形の決然たるマテリアリズム(唯物主義)であることになる。
 だが、グリッドがわれわれに語らせるのが唯物主義であるとしても――それについて議論する論理的方法は他にないように思われるが――芸術家たちはかつてそのように議論してきたわけではない。なんであれ彼らのトラクト(小冊子)――たとえば、『造形芸術と純粋造形芸術』や『非対象の世界』――を開いてみれば、モンドリアンマレーヴィチはキャンヴァスや絵具や〔鉛筆の〕黒煙やその他の材料について論じているわけではないことがわかるだろう。彼らは〈存在〉や〈心〉や〈精神〉について語っているのである。彼らの見方では、グリッドは〈普遍〉への懸橋であり、彼らは眼下の〈具体的世界〉で起こることには興味がないのだ。あるいは、より現代的な例を引くなら、アド・ラインハートのことを考えることができよう。彼は「芸術とは芸術である」と繰り返し主張したにもかかわらず、最終的には9個の黒い正方形よりなるグリッドの連作絵画に至りつく。そこに不可避的に出現してしまうモチーフは、ギリシア十字である。西洋においてはいかなる画家も、ひとたびそれを使ってしまえば、十字架の持つ象徴的な力と、精神的指示作用という開けられたパンドラの箱に、無自覚であるわけにはゆかない。
 (略)
 (略)論理的に言えば、グリッドはあらゆる方向に無限に広がる。ある所与の絵画または彫刻によってそれに課されるいかなる境界も――この論理に従えば――恣意的なものとしかみなされえない。グリッドの力によって、所与の美術作品は、たんなる断片、限りなくより大きな構造体から恣意的に切り取られた小片として提示される。こうして、グリッドは美術作品から外側へと作用し、そのフレームを越えた世界の認識をわれわれに強いる。これが遠心的な読み方である。求心的なそれは、当然のことながら、美的対象の外の境界から内側へと働く。この読み方において、グリッドは、美術作品を世界から、環境空間から、そして他の事物から分かつあらゆるものの再-現前化である。グリッドは、世界のもろもろの境界の作品の内部への取り入れである。それは、フレームの内側の空間を、それ自身へとマップ(写像)する。それは、反復の様態であり、その内容は芸術の慣習的性質そのものである。(ロザリンド・E・クラウス〔谷川渥・小西信之〕『アヴァンギャルドのオリジナリティ モダニズムの神話』月曜社/2021年/p.24-25, p.35)

さらに、モンドリアンに代表される西洋近代芸術の象徴であるグリッドを用いながら、壁を「借景」のように取り込むと同時に、作品に射す光がつくる影が豊かな表情を生んでいる点には、東洋的な趣味を読み取ることもできる。ところで、展覧会のタイトルに「繭」を意味する「コクーン(cocoon)」が冠されているのは、熟蚕に繭をつくらせるための蚕具の蔟(区画蔟)の形に作品が似ているからだ。区画に表計算ソフトのセル(cell)を認めれば、コロナ禍の今、統計学手法を採用する疫学を連想しないわけにはいかず、「巣籠もり(cocooning)」の時代を象徴する作品となる。
水彩画の2点は、それぞれ数ミリの辺を持つ矩形(1点は正方形、もう1点は長方形)を縦横に接するように水色の絵具で描きこんでいき、数十センチの水色の長方形を表した作品。離れて見るときには「方眼紙」のような規格品として立ち現れるが、近づいてみると1つ1つの矩形の濃淡や滲みやはみ出しが把握でき、トウモロコシの実のようにそれぞれが個性的であることに気が付く。矩形は桝(cell)というよりは細胞(cell)である。また、水彩絵具と水色とは水のイメージを生む。画面に遠心的な力を認めれば川や海原の広がりに揺蕩い、求心的な力を感じれば池や湖の中へ沈潜することとなる。