展覧会『サンドラ・シント展「コズミック・ガーデン」』を鑑賞しての備忘録
銀座メゾンエルメス フォーラムにて、2020年2月11日~7月31日。
サンパウロを拠点に活動するサンドラ・シントのインスタレーション。
会場のある銀座メゾンエルメスはレンゾ・ピアノの設計で、壁面をガラスブロックが覆う印象的な外観をしている。とりわけ、ソニービルが取り壊された跡地は、期間限定のGinza Sony Parkとなり、見慣れない植物が立ち並ぶ「アヲ GINZA TOKYO」が開設されているため、ソニー通り側の広い壁面もよく見える。会場である8階のLe Forumには、ガラスブロック(その外の地上には植栽=庭が広がる)に向かい合う壁面が、晴海通り側から順に淡い空色から濃紺へと段階的に塗り分けられ、白いマーカーで波、岩、橋、ブランコ、シャンデリア、光といったイメージが描かれている。海を表したと思しき、形・大きさの異なる厚みのあるカンバスがいくつかリズミカルに配され、それぞれには壁面のイメージと連なるような描き込みがされている。うねる波やしぶきによる水滴は、光の波と粒子の性質の相似となっている。ブランコの往復は波に、宙づりはシャンデリアに、シャンデリアは光に。宙づりのイメージは吊り橋に、吊り橋は鉄橋や線路に。連関するイメージ自体が「連なり」を強く印象づけるが、中でも雨のイメージは、波の存在と相俟って、水循環を象徴する。宇宙の円環構造を表すのだろう。
『人間の庭』(横山正訳、思索社、1985)の著者J.ブノア=メシャンは、「庭はひとが心に思い描く至福の姿を表現せんがために造られたもの」とする。失われた天井の楽園のかわりに、人工の楽園を地上に造ろうとしたとも言う。その事情により、中国では「逃避と夢の庭」が、ペルシアでは「郷愁と欲望の庭」が、アラブでは「快楽の庭」が、修道院では「瞑想と祈りの庭」が造られた。そして日本では「空想の世界への跳躍台として、また平安への逃避の場」として、庭はくつろぎと平安、神経を落ち着かせる働きをもったと指摘する。
おそらく昔から災害、戦乱が続くなかで、人々は「安全」と「心の平安」を願い、その具体的表現として「庭園」を営んだのだろう。戦乱の続く時代の平安の形は「秩序」であった。混乱ではなく、秩序をつくらなくてはならない。
人間同士では競いあい、秩序ができないなら、絶対的な力――神仏を登場させればいい。古代エジプトの造園の始まりは、神殿への並木道だといわれる。神殿の荘厳を演出するには、神殿に向かって一直線に続く並木道がふさわしい。(略)
砂漠のなかに緑濃き並木道をつくり、維持するには、灌水をはじめぼうだいな奴隷労働を必要としただろう。神殿への並木道は、王の権威を高め、秩序を形にして社会に示した。西洋庭園の形式原理である「シンメトリー」(左右対称、直線構成、軸線)の登場である。
日本での秩序は、大きく見れば自然の山河――いわゆる山水をモデルにしたといってよいだろう。しかし、少し細かく見れば、山水――宇宙モデルを描いた仏教世界の秩序を下敷きにして、これをミニ山水、すなわち石や水や土や木で小宇宙を庭内に再現するという方法がとられたといってよい。(進士五十八『日本の庭園 造景の技とこころ』中央公論新社(中公新書)/2005/p.11-12)
「コズミック・ガーデン」は、直線ではなく曲線が用いられ、シンメトリーではない。「大きく見れば自然の山河」を描いている宇宙の(=コズミック)庭(=ガーデン)だ。「仏教世界の秩序」かどうかはさておき、山水的と言えよう。水を用いることなく水を表す枯山水である。また、山水に持ち込まれたシャンデリアは、宇宙を室内空間へとひねって接続する装置、あるいは圧縮して入れ込んでしまう装置として機能している。
(略)動物学者のD.モリスによれば、エデンの園の樹木に実る果物、池の水、池中の魚や鳥は、人間が生きるために必要な食べ物や飲み物の象徴だという。それに柵は、いうまでもなく敵から身を守る設備である。だから、動物学的には生命保全が可能な環境が理想環境ということになる。現代の景観論では、これを「生きられる景観」といっている。
J.アップルトンは『景観の体験』という本で、われわれ人間がある風景を見て、美しいとか、好ましいとか感じる場合、それはその風景に描かれている環境が、人間にとって生存しやすい条件を整えていることを見抜いてのことだという。
その好例が、中国の山水図の構図である。なかに描かれた人物は、絵を鑑賞する者の代理自我である。したがって、自分の代理である画中の人物が生きられる条件に置かれているかどうかが、好ましい風景かどうかの決め手になる。
多くの山水画は、山あいの里を描いている。代理自我は、たいてい下から眺めても見えない崖の上の庵にいる。庵を一歩出て崖下を見下ろすと、川が流れ、外部からここに入るには橋を渡って入ってこなければならない。崖上からはその姿を一望でき、何者が入ってくるかただちに見える。しかし、自分の姿はもちろん、その庵さえ橋を渡ってくる者からは見えない。そういう構図になっている。守りやすく、攻めにくい場所に、代理自我の居場所が描かれているのが、風景画の構図になっているということである。(進士五十八『日本の庭園 造景の技とこころ』中央公論新社(中公新書)/2005/p.8-9)
山水画と異なり人物こそ描かれていないが、誰も乗っていないブランコの存在は、鑑賞者をブランコへ、すなわち画中へと誘う。「空想の世界へ」と「跳躍」するのではなくブランコを漕ぎ出すことで、鑑賞者は時の流れの中で揺蕩うのだ。