可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 田中偉一郎個展『2022』

展覧会『田中偉一郎個展「2022」』を鑑賞しての備忘録
TS4312にて、2022年7月8日~31日。

田中偉一郎の個展。

《鮭の切り身ルアー》(2008)は、釣り竿から繋がる糸の先に取り付けられた鮭の切り身の疑似餌である。一般的な鮭のサイズに比して小ぶりに作られた疑似餌は、鮭の切り身の姿を視覚的に模倣しながら食べることは叶わない。もっとも、釣り道具としての機能は残されている。絵画や彫刻が作品が自然や人物などを模倣しながら専ら視覚に供されるのとは異なる。
《公園革命シリーズ〈バラエティ・ブランコ〉》(2011)は、公園に設置されているブランコの踏み台の鎖を外し、あるいは組み替えた様子を撮影した写真群。とりわけ踏み台と鎖とが完全に取り払われた状態は、ブランコの揺動遊具機能の喪失であり、彫刻への転化である。支柱や柵が青、赤、黄であるブランコが選ばれており、ピート・モンドリアン(Piet Mondrian)の「コンポジション」シリーズを彷彿とさせる。「彫刻」の三次元を写真という平面に落とし込んだ際の造形的な調和が追究されている。世界を模倣する作品ではなく、世界となる作品の追求という点で、「革命」的である。
《ハト生成》(2022)は、男性用の尿瓶を半分に割って作った型枠と、それを用いて砂場にハトの像を拵えた様子を撮影した写真とから成る。男性用の尿瓶は、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)が《泉》と題して提示した男性用小便器を容易に想起させる。デュシャンは署名することで量産品の便器を固有の作品に変えた。もっとも便器としての有用性は消失していなかった。実際、牛波は小便器をトイレに設置すること(板橋区立美術館蔵の《泉水》)で《泉》が便器本来の機能を回復可能だと示している。《ハト生成》においては、尿瓶を真っ二つに割ることにより本来の機能を不可逆的に喪失させている。同時に、割られた尿瓶は型枠として、水で湿らせた砂場の砂からハト像を量産可能である。大量生産と大量消費の社会を背景にアンディ・ウォーホル(Andy Warhol)がキャンベル・スープ缶を始めとした商品をシルクスクリーンで量産したのとは対照的に、ハト像は水が蒸発することで儚く崩れ去り、元の砂場の環境が復元される。環境負荷をかけないエフェメラルなランド・アートと言える。平和を象徴するハトが容易に失われるということは現下の国際情勢を如実に反映するものである。
《顔ハトパネル》(2022)は、1羽のハトを人間のサイズに拡大して表わしたパネルの、ハトの横顔の部分に穴を空けた、顔出しパネルである。パネルの開口部に鑑賞者が顔を嵌めるとき、ハトの図像と鑑賞者の顔とは同一平面上に位置する。対象との距離がゼロになり、可視性を喪失する。開口部はゼロの象徴であったのだ。鑑賞者は自らが顔を覗かせたイメージを思い描くほかない。同様に、キャンヴァスを支持体とした同サイズの絵画2枚を画面同士接着させて展示した《絵vs絵》(2019)においても、画面と画面との距離がゼロであることから、鑑賞者は画面の可視性を剥奪され、イメージを想像することができるのみである。
《ハト命名》(2000)は、鳩の群れを撮影した映像作品。往年のドラマのキャスト紹介のように、1羽にクローズアップすると画面が停止して名前(人名)が表示される。続編の《ハト命名2022》(2022)が一般名詞であったり宛字であったりと特異な名前が付けられているものが多いのに比して、《ハト命名》には実在と思わせる名前が並んでいる。みうらじゅんが考案した「ゆるキャラ」という名称によってかつては目に留めてもらえなかった冴えないキャラクターが広く認知されたように、名付けは地から図を浮き立たせる力を持つ。赤瀬川源平らの提唱による、制作者不在で鑑賞者のみが存在する「超芸術トマソン」(例えば、戸口の閉鎖や建物の撤去などの結果、昇ったら降りるしかなくなった階段「純粋階段」や、風に吹かれて植物が壁面を擦った跡である「植物ワイパー」など)もまた命名の力と言える。命名は、対象を周囲から切り離して作品に立ち上げる、創作行為である。もっとも、デパートの紙袋に「東急本店」と書いて、その読み仮名を「ドン/キ/ホー/テ」とした《東急本店》(制作年不詳)は、「命名」の恣意性を明らかにする。だが、それはハトを平和の象徴と看做すのと何ら異なるところはない。ハトはどんなメッセージも運べてしまうのだ。だから常に戦争は、ハト=平和の名の下に行われる。