可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 宮島達男個展『Numerical Beads Painting』

展覧会『宮島達男「Numerical Beads Painting」』を鑑賞しての備忘録
SCAI THE BATHHOUSEにて、2023年2月28日~4月15日。

作家を代表するシリーズであるLEDのデジタル・カウンターを用いた作品3点に加え、最新作の、キャンヴァスの格子に1から9までのアラビア数字が刻まれたアクリル製ビーズを配した「Numerical Beads Painting」シリーズ5点を展観する企画。

入口(受付)の空間は照明を落とし、黄緑色のLEDのデジタル・カウンターを用いた作品を3点展示している。いずれも「ガジェット」と呼ばれる1~9の数字(0は点灯しないことで表わされる)で2桁の数字を異なるスピードでカウントアップするものが10個横に並んで1セットになっている。《Verical in Green》(3535mm×260mm×30mm)は縦に20セット、《Horizon in Green》(110mm×3500mm×30mm)は横に10セット、もう1点の《Verical in Green》(870mm×260mm×30mm)は縦に5セットでそれぞれ構成されている。
「ガジェット」は時間の経過とともに生命を表わすなら、「ガジェット」が10個1セットになっているのは、社会ないし生態系の表現となる。黄緑の光は太陽のエネルギーを取り込む葉緑体光合成のメタファーかもしれない。それでは、各セットが水平や垂直に組まれているのは何故であろうか。水平の場合、ガジェットを横に組んだセットは連続的して並ぶことができるのに対し、垂直の場合、セットは非連続的になることに着目すべきだろう。水平構造では時間の連続性とその不可逆性が、垂直構造では、時間の非連続性とその回帰性とが訴えられているのではないか。

 この論考〔引用者註:九鬼周造がフランス滞在中、ポンティニーで行った講演「時間の観念と東洋における時間の反復」〕の主題は、そのテーマからも明らかなように、時間の東洋的な反復、すなわち永劫回帰としての輪廻をあつかうものである。とはいえ、そこで九鬼が想定していることは、東洋の時間と西洋の時間の比較・対比ではなく、むしろ両者の水平的・垂直的なかさなりあいである(いうまでもなく、ニーチェツァラトゥストラの時間もまた東洋的時間でありながら、それ自身は西洋的なものの基底に位置付けられる。ドゥルーズもまた同じである)。こうした交錯について、九鬼はつぎのように記している。

最近、時間の存在・現象学的(onto-phénomènologique)構造を特徴づけるために「エクスタシス」(extae[Ekstae])という言葉が使われている……時間の特徴はまさにそれら〔未来、現在、過去〕のエクスタシスの完全な統一、時間の「エクスタシス的統一」(son unité extatique[ekstatische Einheit](マルティン・ハイデッガー存在と時間』、三二九頁)に存する。この意味でのエクスタシスはいわば水平的(horizontale)である。(九鬼周造『時間論』岩波文庫、一五-一六頁)

しかるに、輪廻の時間に関して、わえわれはなお他に垂直的(verticale)であるようなエクスタシスがあるということができる。各々の現在は、一方には未来に、他方には過去に、同一の今を無数にもっている。それが無限に深い厚みをもった瞬間である。しかし、このエクスタシスはもはや現象学的(phénomènologique)ではなく、むしろ神秘主義的(mystique)である。(同右、一六頁)

この段階での九鬼は、『偶然性の問題』を執筆していた時期と異なり、おそらく西田〔引用者補記:幾多郎〕的な現在の深さという議論とほぼ無関係であったことは強調しておこう。重要なのはここで九鬼が、ハイデガー的な現象学的時間論を水平的なもの、いいかえれば深みのないものとして位置付け、それに対して神秘主義的な永劫回帰の時間性をその垂直性において不可欠なものとして記していることにある。このように九鬼が神秘主義的時間の必要性を主張することは、西田が絶対無を論じた際、田辺元からその宗教的な神秘性を痛烈に批判されたことときわめて対照的であるともいえる。むしろ九鬼は、水平的な時間のエクスタシスだけでは時間そのものが成立しえず、垂直的で、いわば経験外にあるようなエクスタシスこそが不可欠だとのべるのである。
 かく論じた上で、九鬼は、前者の水平面においては「連続性」と「異質性」が存在し(これ自身はベルクソンの連続性の定義そのままである)その時間は不可逆的であるが、後者の垂直面においては「非連続性」と「同一的質性」が存在し、まさに同一的なものが無限に回帰する時間が示されるとのべていく。さらにはそこで前者の水平面は「現実面」であり、後者は「仮想面」であるが、この両者の交錯こそが、時間の独自な構造をになうと主張されるのである。
 ポンティニー講演における時間論では、いまだ「永遠の今」としての議論はでてきていない。しかしそこではすでに、西田がいわば自力でベルクソンを批判しつつたちいたった「非連続の連続」「無の自己限定としての現在」というテーマが、九鬼自身ではハイデガーを批判するという仕方で描かれているとものいえるのである。水平のエクスタシスには、「仮想的」ではあるが形而上学的な垂直のエクスタシスが不可欠なのである。
 永劫回帰という思考が一種の無限反復性を前提としながらも、その反復性のなかで現象面に触れることで一回性を確保するという主張は、いわばダイレクトに『偶然性の問題』における離接的偶然の問題につながっていくものである。端的にいえばハイデガーの水平のエクスタシスは、「今ここ」のエッケイタス=此性に対する感性に欠けている(ハイデガーが自身の思考の根拠を、ギリシアという過去の実在によって「補完」しようとする「反動」性にいたったのはきわめてわかりやすいことである)。ところが九鬼や西田は(あるいはニーチェドゥルーズは)まったく別の視角から、時間性の議論を遂行しようとする。彼らは明らかに、現象学的な議論が提示する(あるいはそれと類縁的なかぎりでのベルクソンの議論が示す)水平のエクスタシスを超えた、徹底した無根拠の場面を、現在が成立することの根底そのものにみせている。「このもの」である個体が、「徹底的な同一性の反復」という仮想面を背景にもたないかぎり示せないことにきわめて鋭敏なのである。(檜垣立哉『日本近代思想論 技術・科学・生命』青土社/2022/p.149-152)

不可逆的な連続する時間を象徴する《Horizon in Green》と、不連続の仮想的な時間《Verical in Green》とを結び合わせるのは、会場に居合わせた鑑賞者、すなわち「『今ここ』のエッケイタス=此性に対する感性」ではなかろうか。作家は作品が鑑賞者と交渉することを常に目論んでいるからである。

会場を仕切るカーテンを開けると、明るい空間の正面に、黒く塗ったキャンヴァスに白いビーズが取り付けられた《Numerical Beads Painting-016》(2590mm×2590mm×42)が現れる。「Numerical Beads Painting」シリーズは、いずれもキャンヴァスの格子に1から9までのアラビア数字が刻まれた白いアクリル製ビーズが貼り付けられた作品であるが、画面を黒く塗り潰した《Numerical Beads Painting-016》によって、手前のデジタルカウンターの闇と接続している。
「Numerical Beads Painting」シリーズの各画面のグリット線上に配された数字は、「全体に対するビーズの占有率を定め、コンピュータープログラムでランダムに算出させた設計図面に従って配されてい」る。数字(のビーズ)のランダムな配置は、あくまでもプログラムにより計画的に導かれている。それは「ラプラスの魔」を象徴する。

 古典力学では(量子力学でも)初期値問題という問題を立てられる。関わりのあるすべての物体の、ある時刻における位置と速度を知っているとして、未来における物体の配置・運動を求めよという問題が初期値問題である。電磁場などの場に対しても、量子力学波動関数や物理量演算子に対しでも、初期値問題を設定できる。未来の状態を求めるだけでなく、過去の状態を求める問題も設定できる。
 してみると、全宇宙のある瞬間の状態を知るものは全宇宙の過去も未来も完全に見通せるのではないかという予想が立つ。そのような全知の存在を「ラプラス(Laplace)の魔と言うのはよく知られた話である。
 量子力学系の状態が厳密に決定していても観測結果は確率的にしか定まらないことを考慮すると、ラプラスの魔は成立しないだろうが、この世界が完全に古典力学に従うと仮定すれば、あるいはヒューマンスケールの現象は古典力学で十分な精度で予測できるとすれば、ラプラスの魔は成立するのではないかと思われるかもしれない。
 しかし、いくつかの理由から、古典力学的世界を仮定してもラプラスの魔は成立しないと私は思う。よくあるのは、一般に非線形学系は初期値にどんなにわずかな誤差があっても時間の経過に伴ってたちまち誤差が増大し事実上予測不可能なカオス挙動を示すので、古典力学決定論としての用をなさないという指摘である。これに対しては、「それは人間による測定と予測の限界を言っているだけで、古典力字的世界自体が非決定論的だと言ったことにはならない」という反論を思いつく。
 古典力学は通常、微分方程式で定式化されるが、微分方程式の解の存在と一意性が破れる例はいくらでもある。つまり、何が起こるか本当に予側できないような古典力学的モデルはある。これはラプラスの魔にとって痛手であろう。
 全宇宙の出来事を述語論理の論理式の形に書くことはできるだろうか? 「明日の昼、私はラーメンを食べる」とか「来年、日本のどこかに隕石が落ちる」といった文はYesかNoかを判定できそうな文である。代数的場の量子論では時空上の事象をYes/No qustion型の射影演算子で表すが、古典力学的な事象すべてを、真理値を割り当てられるような論理式で記述して、それらが真か偽か証明しようという企ては成功するだろうか? 「すべての事象の論理式は証明可能か?」という問いが「ラプラスの魔は成立するか?」という問いの数学的定式化になるのではないだろうか。
 全宇宙の物理的公理系というものが定まっていないので、この問いには確たる答えはないが、おそらくゲーデル(Gödel)の不完全性定理に似た意味で、事象論理の体系は不完全だろうと私は予想する。すべでのことがらの成否を決正事項として見通すラプラスの魔は数学的に存在しないのではないか。(谷村省吾「自由意志問題の建設的な取り組み方」『現代思想』第49巻9号(2021年8月号)p.65-66)

ところで、《Numerical Beads Painting-006》(2590mm×2590mm×42)ではライトグレーの画面に金色の絵具(下にオレンジ)が、《Numerical Beads Painting-004》(1940mm×1940mm×35)ではライトグレーの画面に青い絵具が、アメーバが数字の間を縫うように描き込まれている。これは、科学や技術の発達によって、複雑な系の構成要因や経路の理解が進んでいくことを示しているのではないか(その場合、ライトグレーで塗り込められた《Numerical Beads Painting-012》(2910mm×2910mm×44)は初期状態に比定できる)。だが、その画面の前の床には、作品に用いられているのと同じ数字を記したビーズが床に落ちている。ビーズは未だ把握できていない構成要因を象徴するのであろう。そして、それぞれ黄、黒で全面が塗り込められた《Numerical Beads Painting-008》(910mm×910mm×30)、《Numerical Beads Painting-016》は、「ラプラスの魔」が成立したかに見える状態を表わす。それでも画面の前にはビーズが散らばっているのは、作者が「ラプラスの魔」は成立せず、決定論的な立場の不可能性を訴えるためではなかろうか。