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芸術鑑賞の備忘録

映画『コンパートメント No.6』

映画『コンパートメント No.6』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のフィンランド・ロシア・エストニア・ドイツ合作映画。
107分。
監督は、ユホ・クオスマネン(Juho Kuosmanen)。
原作は、ロサ・リクソム(Rosa Liksomin)の小説"Hytti nro 6"。
脚本は、アンドニス・フェルドマニス(Andris Feldmanis)、リビア・ウルマン(Livia Ulman)、ユホ・クオスマネン(Juho Kuosmanen)。
撮影は、ヤニ=ペッテリ・パッシ(Jani-Petteri Passi)。
美術は、カリ・カンカンパー(Kari Kankaanpää)。
衣装は、ヤーヌス・ヴァハトラ(Jaanus Vahtra)。
編集は、ユッシ・ラウタニエミ(Jussi Rautaniemi)。
原題は、"Hytti nro 6"。ロシア語題は、"Купе номер шесть"。

 

女性がドアをノックする。ラウラ(Seidi Haarla)がトイレから出て来る。ロキシー・ミュージックの「ラヴ・イズ・ザ・ドラッグ」が鳴り響く部屋のそこかしこでは数名ずつが輪になって会話に興じている。書棚を抜けるとイリーナ(Dinara Drukarova)たちが書籍の一節を暗唱して、出典を当てさせるクイズをしていた。「逃げるんだったら、どこへ逃げるかじゃなく、どこから逃げるかをしっかりと把握しなくちゃならない。」 ペレーヴィンだろ? 書名は? 『虫の生活』? 『宇宙飛行士オモン・ラー』? 『チャパーエフと空虚』か。正解! ラウラは隣にいた男性に尋ねられる。『チャパーエフと空虚』は読んだ? ペレーヴィンは知っているけど、読んだことはないわ。読むつもりだけど、絶対に。イリーナが出題する番になった。人間同士の触れ合いはいつも部分的だ。アンナ・アフマトーヴァ? ラウラが答える。近い。アフマートヴァだと隣の男が訂正する。原語だと"Only the parts of us will ever touch only the parts of others." 分からない? マリリン・モンローよ。
ラウラは1人寝室へ向かう。ベッドに腰を降ろすと、ムルマンスクの岩絵の本を手に取る。イリーナがやって来る。大丈夫? イリーナはラウラにキスの雨を降らせ、ベッドに押し倒す。来てよ、私の恩師を紹介したいの。すぐ行くわ。イリーナが立ち去ると、ラウラは溜息をつく。
フィンランドの友人なの。イリーナが老教授にラウラを紹介する。お会いできて光栄です。明日モスクワを発つの。ムルマンスクに岩絵を見に。それは素晴らしいね。イリーナがいつも岩絵について話しているもので。岩絵を見るのがとても楽しみです。近くにいた男性がラウラに尋ねる。考古学を? いいえ、でも学びたいと思っています。もともと原語を学びに来たのですが、イリーナと出会って…。それは当然の欲求だよね。私たちがどこから来たのか知ることはとても大切なことだよ。過去を知れば現在をより良く理解できるからね。イリーナがグラスを叩いて皆に注目させる。フィンランドの友人に乾杯してくれないかしら、明日北極圏へ向けて出発するの、岩絵を見にね。この旅があなにとって忘れられないものになりますように。
誰なんだ? イリーナの「下宿人」よ。
写真を撮りましょう。イリーナが友人達とともに座るラウラの写真をインスタントカメラで撮影する。イリーナはデザイアレスのヴォワイヤージュ・ヴォワイヤージュをかけると、踊ろうとラウラを誘う。
夜。ラウラと重なっていたイリーナが脇に横になる。旅行に行けなくなってごめんなさい。でもどうしようもなかったの。イリーナが起き上がったラウラの手を取る。ラウラは服を身に付けると、1人ベランダに出る。雨の降るモスクワの街は、眠っている。
まだ暗い中、列車がターミナルを出る。ラウラが離れていく街を眺める。
寝台列車の二等車の客室。寝台に布団を上げていると車掌(Yuliya Aug)が検札に来る。パスポートを呈示して下さい。同室の男(Juri Borisov)はすぐに車掌に旅券を手渡す。ラウラはバッグの中を探す。急ぐ必要はありません。ラウラが何とか見付け出して車掌にパスポートを渡す。2人ともムルマンスクまでですね。床は綺麗に。トイレにゴミを捨てないように。良い旅を。同室の男は早速酒瓶とコップを取り出すと、飲み始める。ラウラはカセットテープレコーダーで音楽を聴き始める。
ラウラは食堂車で車窓を撮影しながら時間を潰していた。お下げしても? 給仕係に尋ねられるが、ラウラは断る。戻ってきた給仕係が営業を終了するとラウラに告げる。
通路で車窓を眺めていたラウラが客室に戻る。戻ってこないと思ってたぜ。同室の男はすっかり出来上がっていた。ラウラはすぐに上段のベッドに上がり込む。寝台列車は初めてか? いいえ。おい、見ろよ、吹雪だぜ。降りて来いよ。カメラ持ってんだろ。すげえ吹雪だ。やむを得ずラウラは寝台から降りる。ロシアってのはよ、偉大な国だろ。ファシストをぶっ倒した。月へさ、ぽーんと行った。男は何かを口にしながら煙草を吸い、ラウラに語りかける。エストニアには何があるんだ? フィンランドよ。

 

フィンランド出身のラウラ(Seidi Haarla)は言語を学ぶためモスクワに留学し、教授のイリーナ(Dinara Drukarova)と恋仲になった。イリーナからムルマンスクの岩絵の素晴らしさを吹き込まれたラウラは、実際に現地を一緒に訪れることにした。ところがイリーナは直前になって旅行をキャンセルする。失意のラウラは1人ムルマンスク行きの寝台列車に乗り込む。ラウラと同室になった男(Juri Borisov)はすぐに共用のテーブルに酒瓶を取り出して飲み始めた。食堂車で車窓を撮影して時間を潰したが営業が終了してしまい、通路にいるのも草臥れたラウラが客室に戻ると、すっかり出来上がった男が絡んでくる。フィンランド語で「愛してる」を表わす言葉を聞かれたラウラは「Haista vittu(くたばれ)」と教える。Haista vittuと言いながらラウラの身体に触れてきた男に耐えられず、車掌(Yuliya Aug)に客室変更を求めるが叶わず、三等車で空いている寝台はないか尋ねるが徒労に終わる。疲れたラウラが客室に戻ると、同室の男は寝ていた。寝台に上がったラウラはヴィデオカメラでテープを再生してモスクワでの美しい思い出に浸る。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

吹雪の世界を抜ける寝台列車の暗い世界は、トンネルに入り込んだラウラ自身の象徴である。彼女に光は射すのか。
ラウラは1人北極海に近いムルマンスクに旅立つ。ともに旅立つはずだった恋人のイリーナが来られないことになった。寝台列車で同室となったのは痛飲してラウラを娼婦扱いする男。イリーナの人柄を慕って多くの人が集まるモスクワの文学サークルとの落差を痛感させられる。ラウラはサンクトペテルブルクで列車を降り、モスクワに戻る列車の発車時刻を確認して電話するが、イリーナの心は既にラウラから離れていた。失意のラウラは男のいる客室に戻る。
イリーナとの関係が終わったことを受け容れきれずにいる中、質の悪い男リョハに遭遇し、絡まれる。だがリョハと接するうち、イリーナの彼に対する気持ちは徐々に変化し、イリーナに対する失恋の痛手も少しずつ癒やされていく。
終点のムルマンスクが迫る中、食堂車でラウラがリョハに自らの好意を伝える方法と、ラウラの求めに上手く応じられないリョハとがとりわけ印象に残る。
途中停車、途中下車が、ラウラとリョハの関係を変えるポイントとなる。寝台列車の旅の終着駅は、想像していた姿――ラウラがイリーナとともに見るはずだった岩絵が象徴する――とは全く異なるだろう。
ラウラとリョハは、ローズとジャックとは異なる。タイタニックとは異なり、2人の船は最初から座礁して――岸に上がって動けなくなって――いたのであり、決して沈むことはないのだ。
雪の中で見かけた犬の後を追いかけたラウラは、地元の人に歓待される。偶然出会った、幸運をもたらす犬は、リョハの象徴だろう。
リョハを演じたYuri Borisov。魅力的な悪戯小僧の愛嬌が顔を覗かせる。
2人のじゃれ合いが格闘っぽいのが極寒の大地ならでは。
見て良かったとの余韻に浸れる作品。万人にお勧めできる。テイストはかなり異なるものの、映画『恋人までの距離(Before Sunrise)』(1995)が好きな人はとりわけ嵌まるのではなかろうか。