可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 大矢一穂個展『Eye to eye, so alive』

展覧会 大矢一穂個展『Eye to eye, so alive』を鑑賞しての備忘録
MEDEL GALLEY SHUにて、2023年9月12日~24日。

大矢一穂の絵画展。

鑑賞者の眼に向き合う眼――eye to eye――として提示されている、銀色の肌の人物の右目の辺りだけを描いた《瞳》(180mm×140mm)を始め、会場には眼を描いた作品が溢れている。人物を描いた作品に眼が表わされること当然であるが、ある意味、過剰に眼が表わされているのである。
例えば、本展の表題作と言える《目と目があって、生きる》(530mm×455mm)には、画帳を手にした人物の姿とともに、その後方の中空に浮かぶ眼が描かれている。これは自己が眼を持つ身体を俯瞰する眼であり、それが生を可能にしている――正しく「目と目があって、生きる」――ことを明らかにするものだろう。

 子は、母から見られた自分が自分であることを受け入れることによって自己になるわけだが、この自己を自己とする眼は――はじめは手がかりとして母の眼の位置にあるにせよ――そのとき宙空にあるとでもいうほかない。そしてじつは、この中空にあって俯瞰している眼のほうが自己なるものにほかならないのだ。だかこそ、自己にとっては自己の身体があたかも外部から与えられたように見えてしまうのである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.113-114)

《いくつもの目》(410mm×273mm)では、褐色の肌を持つ女性の横顔の頬に正面向きの目が描かれている。さらに彼女の背後には大理石ないし石膏でできた像のような顔が配されている。これもまた――文字通り――自己の絵解きと考えられる。

 いわば、生命は眼の獲得と同時に、自分から離れることを強いられたのである。この距離、この隔たりが、精神といわれるもの、霊といわれるものの遠い起源であることは、私には疑いないことに思われる。
 私とははじめから、相手のこと、外部のこと、なのだ。鳥が魂の比喩として登場するのは当然なのだといわなければならない。私とは外部から私に取りついたもののことなのだ。これが、魂が身体を支配するという人間の劇、主と奴の劇がはじまる背景だが、それがすでに個体の次元においてはじまっていることに注意すべきだろう。社会は個体の次元においてすでにはじまっているのだ。それも文字はもとより、言葉のはるか以前、おそらくは眼が誕生した段階からはじまっているのである。眼は対話の誕生、自問自答の誕生なのだ。
 したがって、私とはすでに決定的に媒介されているもの――いわば複数――なのであり、それを唯一の起点として世界を考えることなどできはしない。私を起点に世界の存在を考える特権など、私にはないのだ。私が誰かの生まれ変わりでないなどとどうして断言できるだろう。そもそも私とは両親の生まれ変わりにほかならないではないか。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.206-207)

《二人のイヴ》(1167mm×910mm)では眼(頭部)こそ2つ描かれてはいないが、イヴの身体が2つ表わされている。イヴの傍らには蛇の姿が見えるが、イヴは蛇に勧められた無花果を手にして、未だそれを食していない。無花果を食した後に眼が開く(善悪を知る)との『創世記』の記述を踏まえ、もう1つの眼を表わさなかったものと解される。最初の女性であるイヴが「決定的に媒介され」る予兆としての絵画である。
また、メインヴィジュアルに採用されている《双子のヴィーナス》(1167mm×910mm)には、2人の女性の豊かな裸体が描かれる。なぜヴィーナスは双子なのか。それはヴィーナスが象徴する美――ひいては絵画――とは、その根底に「騙し騙されるという要素」が存在することを双子によって表現したかったからであろう。

 眼が時間と空間を生んだ、つまり、時間と空間は眼すなわち光を感知する器官によって生まれたのだといっておそらく誤りではない。しかも、この時間の対象化はただ時間の図式化、構造化すなわち空間化によってしか成り立ちようがなかったのである。同じように空間の対象化も時間――生命という時間――によってしか成り立ちようがなかった。ここで相対性理論の時空、量子力学の時空を総合して、カントが考えたほど時空は自明すなわちアプリオリな枠組みではないということを論じるほどの能力は私にはないが、それらの理論をもたらすことになった人間の思考能力のすべてが、何よりもまず、眼という光を感知する感覚器官から派生したものであることについては指摘することができるだろう。
 しかも、この感覚器官が生命体の思考能力をほとんど無限に育むにいたったのは、自分は騙されているのではないかという疑いをつねに強いることによってなのだ。騙されるものすなわち疑わないものは死ぬのである。場合によっては種が絶滅する。騙し騙される次元の根源性を思うべきだろう。それは光を感知する器官によってもたらされる。
 眼は距離をもたらし、距離は猶予をもたらし、猶予は思考をもたらした。その必然的な流れのその必然性は、眼前するものを疑うこと、自分は騙されているのではないかと疑うこと、要するに騙し騙される領域の持つ必然性にほかならない。
 (略)
 言語革命は視覚革命に匹敵する。
 視覚革命によって生命に与えられた能力を、そっくりそのまま外在化したものが言語なのだ。そう考えた方がいい。その能力とは、騙すこと疑うこと以外ではない。
 (略)
 重要なのは、孤独にも感動にも、騙し騙される次元がつねに介在しているということだ。眼も言葉も、騙されやすく、かつ騙されることを喜ぶのである。人間にとっては、恐怖が驚きに転じ、驚きが笑いに転ずる瞬間こそ快楽なのだ。真理が登場するのはその後である。当然のことだが、仮象は真理に先立つ。
 (略)
 人によっては、騙し騙されることを宗教的、芸術的感動の核心に置こうとする考え方を不謹慎というかもしれない。
 だが、ギリシア神話ギリシア悲劇にさかのぼるまでもない。たとえばシェイクスピアの戯曲はすべて騙し騙されるという問題を基軸に据えて展開されているのである。(略)
 (略)
 『オセロ』も『リア王』も『ハムレット』も『マクベス』も、騙し騙されるという要素を抜き去れば、話にならない。喜劇においてはなおさらである。劇中劇は、騙し騙されるという主題を対象化するために構想されているようなものだ。双子の主題にしてもそうである。登場人物は勝手に騙されるのであって、誰も意図的に騙そうとしたわけではない。あるいは勝手に誤解したのであって、誰も誤解するように仕向けたわけではない。だが、事態が騙し騙される次元において起こっていることに変わりはない。
 (略)
 シェイクスピアが多用した劇中劇という方法にしても双子の主題にしても、実際には現実離れしている。つまり、現実には起こりそうもない。にもかかわらずそれが受け入れられるのは、人間という仕組におて、原理的にそれがありうると感じられるからである。荒唐無稽ではあっても、暴かれた人間の仕組そのものには鋭い現実性が感じられるのである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.475-484)

眼という器官があってこその賜物である芸術的感動の核心には、「騙し騙されるという要素」が存在することを作家は訴えるのだ。
絵画を制作する女性を描いた《光る!》(333mm×242mm)において、描きかけの画面――画中画であり、劇中劇である――は彼女の鏡のようである。なおかつ彼女の背後には俯瞰するマネキンのような人物が配されている。俯瞰する眼としての自己と、鏡像≒双子とは、人間の仕組――「目と目があって、生きる」――に根差した芸術活動そのものの表現である。