展覧会『2021美の起原展特別賞受賞記念個展 片野莉乃個展―Inspiration―』を鑑賞しての備忘録
美の起原にて、2022年9月21日~27日。
絵画20点で構成される、片野莉乃の個展。
《思い耽る》(φ530mm)は、銀を背景とした円形の画面に、俯く女性の頭部に游泳する一匹の金魚を描く。金魚が背にする女性の髪は、金魚と調和する緑と黄を中心に青などが差され、作家の絵画に特徴的な、胡粉による盛り上げによる点が無数に配されている。目、鼻の影、口、首は、閉じた等高線を思わせる黄や赤の線で表わされる。方の露出する服は金魚の補色に近い明るい水色で、黄の点を遇っている。
《思い耽る》の他に、《迎福》(364mm×61mm)、《回遊》(273mm×220mm)、《遊泳》(273mm×220mm)、《泳ぐ夢》(φ530mm)と、展示作品20点中5点に金魚が描かれており、金魚が重要なモティーフであることは疑いない。
「びいどろに金魚のいのちすき通り」。鈴木克美『金魚と日本人』は、1768年の川柳とともに、その頃江戸で金魚玉と呼ばれた小金魚鉢が作られていたことを紹介する。
といっても、江戸時代の金魚玉に、たいしてバリエーションがあったわけでもあるまい。当時の絵図に描かれたそれは、ほとんどが球形か、上下にやや平たくした上端を引き伸ばしすぼめて口としただけの簡単な形をしていた。細くすぼめた口も、平らな底もついていない風鈴形の、ごく素朴な金魚玉もあった。それを台や棚の上に置いたり、口径より長い木の棒を内側から横に突っかい棒として当てがい、棒の真ん中に紐をつけ、風鈴と同じような感覚で、軒に吊したり、手に下げて持ち歩いたのだった。
金魚玉は、初めのうちは、せいぜい、大人のこぶしほどの大きさの小容器だった。大きなものは作れなかったのだろう。そのうちに、だんだん大きな金魚鉢も作れるようになり、加賀屋の引札に描かれているような、床面に置いて使える背が高くて真ん丸な、立派な金魚鉢や、前述の「水燭」も作られた。それはもう、江戸も終わりに近くなってからである。口のへりに青や緑のフリルをつけた、あの金魚鉢も、江戸時代にはまだなかった。
それでもこうして、金魚鉢のガラス越しに四方八方から金魚が眺められるようになって、錦絵の美女が、手に下げた小さな金魚玉の小さな金魚を見る眼差しにも、金魚への好奇心と親近感が窺われるようになった。見られる側の金魚も、より美しくなったかもしれない。
小さな金魚ならば安価であるし、小さな金魚玉ならせまい場所にも吊せる。びいどろの中の金魚に目を寄せれば、いっとき、浮き世の憂さも忘れられた。金魚玉の金魚こそ、過密都市江戸文化の申し子だったのではないか。(鈴木克美『金魚と日本人』講談社〔講談社学術文庫〕/2019年/p.162-163)
《思い耽る》の銀色の円形画面は金魚玉に似つかわしい。女性の頭部の位置に配された金魚は、吊された金魚玉の金魚を想起させる。作家に特徴的な胡粉の点が水の中の泡に見えてくる。そのとき、本展に"inspiration"が冠されている理由が見えてくる。
花々を前に絵画を制作する作家の姿を俯瞰して描いた表題作《Inspiration》(530mm×727mm)からも、"inspiration"が創作の刺激や妙案を意味することは間違いない。だが、そもそも"inspiration"は呼吸や息を吹き込むことに由来する言葉である。胡粉の盛り上げによる点が泡であり、空気であるなら、作家は点描によって作品に文字通り息を吹き込んでいたのである。岩絵具で絵画を制作すること、それは土塊に息を吹き込み人間を造ることに比せられる。
もし神が御自分にのみ、御心を留め
その霊と息吹を御自分に集められるなら
生きとし生けるものは直ちに息絶え
人間も塵に返るだろう。(『ヨブ記』34・14-15)
共に人間は、土くれから造られ、やがては塵に戻っていくという意味が込められた部分である。(略)例と息吹が、塵に戻るべき運命づけられた人間を、しばらくは戻らないようにしているという意味が見て取れる。それは次の『創世記』の有名な一節と逆向きに対応しているとも言える。
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(『創世記』2・7)
人間は土くれからできている。その土くれに何かが付け加わるとき、人間は人間になる。そもそもアダムという名前の中に、土という材料の痕跡が潜んでいる。人間は大地からできており、やがて死ぬとき、塵となって大地に戻っていく。(金森修『ゴーレムの生命論』平凡社〔平凡社新書〕/2010年/p.22-23)
紫の陰の中に色取り取りの花が表わされた《garden》(530mm×727mm)にアダムのいたエデンの園を見ることは牽強附会が過ぎようか。
ところで、映画『川っぺりムコリッタ』(2021)には、金魚が空を泳ぐ魂であると説明されるシーンが登場する。そのエピソードの由来は作中で明確にされないが、パンデミックの最中に制作された映画であることもあり、「金魚提灯」の想定も可能だろう(但し、同映画の原作の出版はCOVID-19の流行以前である)。
江戸時代の疱瘡はまさに死病だった。そして、患者はほとんどが乳幼児だった。
魔除けによる回避の祈願も効き目がなく、治療法のない疱瘡にかかってしまった不運な患者は、赤い紙燭を通す赤い光に照らされ、まわり全部を赤ずくめに囲まれて寝かされ、ひたすら病魔が去るのを待つしかなかった。赤い「金魚提灯」をわが子の枕元に吊して、赤いろうそくの灯を灯し、回復を祈願した親たちは、どんな気持だっただろうか。(鈴木克美『金魚と日本人』講談社〔講談社学術文庫〕/2019年/p.229)
本展では会場の都合で上下に分割して展示されている大作《梅が鳴る》(3240mm×1940mm)では、仏間を俯瞰する構図で捉え、仏壇の香炉から立ち上る煙の中に人物や建物のイメージが表わされている。そこには金魚(=魂)が描かれていない。それは浮遊する金魚(=魂)の視点で描かれているからかもしれない。
翻って、表題作《Inspiration》に改めて目を転じてみよう。俯瞰の構図は、やはり金魚(=魂)の視点なのだ。
人は原初的な母子関係において、母の眼から見た自分を発見し、それを受け入れる。言語は、母が子の身になって唱えた言葉を反復することのよって個体的に発生するが、それは他者であるもの――つまり母から見た子――を自分として引き受けるということである。言葉を反復することは、他者になることなのだ。他者にならなければ自己にはなれない。そしてこの入れ替えにあたって人は、他者と自分を同時に俯瞰する眼を習得する、身につけてしまう。
こうして人は、つねに、自己を俯瞰する眼とともにあるということになる。というより、自己とは、自己の身体などではない。この、自己を俯瞰する眼のことなのだ。そしてこの自己を俯瞰する眼は、自己に憑くこともできるが、他者に憑くこともできるのである。人間だけではない、自然物にも、場合によっては観念にも憑くことができる。
観念にも憑くことができる。そして、憑くことができるということは、実在していると感じることができるということなのだ。
自己を俯瞰する眼にとって、自己の身体がまるで他者のように感じられることはいうまでもない。自己をはっきりと意識したとき、人は、自分の身体を与えられたものと感じる。なぜ自分は背が低いのだろうとか、もっと美人だったらよかったのにとか、考えてしまう。自分とはこの距離のことなのだ。自分とは自分から離れていることなのだというこの矛盾が、言語として表現されなければならなくなったときに、魂が、霊が、神が発生したと考えることができる。これこそ超越の起源というべきだろう。
作図能力〔引用者註:自他をともに一望するために脳中に俯瞰図を作成する能力〕がもたらした結び目が、魂であり霊であり神なのである。
(略)
この実感〔引用者註:「自分といふものは目がさめたらゐたんですからね」との中原中也の発言〕から、少なからぬ人間が――中也もそのひとりだが――神へと向かうことは指摘するまでもない。俯瞰する眼は、簡単に言えば、死なないからである。作図能力も、ひとつの機能なのだから、死ぬことはない。中也の言葉を用いれば、「目がさめたらゐた」その自分に気づく自分なるものは、要するに実体などではないひとつの仕組――道元に倣えばひとつの機関――なのであって、いわば永遠に属しているのである。
それをたとえばブランショにならって、死に属するといったもいい。
私という現象は初めから死に属しているのである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018年/p.423-424)
作家がなぜ金魚を描くのか。それは、金魚が魂であり、俯瞰図を作成する能力であるからだ。金魚こそ描くことそのものなのである。