可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 張静雯個展『光と影の間』

展覧会『張静雯展「光と影の間」』を鑑賞しての備忘録
iwao galleryにて、2023年9月7日~24日。

集合住宅など建築物の窓が並ぶ壁面、窓からの眺望など、窓を描く絵画で構成される、張静雯の個展。

《青い窓》(530mm×530mm)は、集合住宅らしき建物の3階分の壁面を正面から捉えた作品であり、各階に3つの窓が規則的に配されている。それぞれの窓には2つのガラス窓が嵌められている。上側の2階分の窓は――《青い窓》のタイトル通り――青い絵具を用いて表わされている。網戸のためか、左右の一方がより暗い。いずれもカーテンが閉められていて、中の様子は窺えない。それに対して下の窓は開けられ、またカーテンが掛かっていないために、扉や収納家具、机や絵画など室内の様子が窺える。人物の影は無い。とりわけ上側の2が締め切られていることとの対照で、人の存在あるいは生活を微かに偲ばせる。
建物の外から部屋を描き、そこに置かれた調度等から人の気配を伝える作家としては、小村雪岱が知られる。斜め上からの俯瞰により畳に置かれた三味線と鼓を描いた《青柳》、あるいは雪に埋もれた家屋の障子が内側の光によって浮かび上がる《雪の朝》などの雪岱の作品に、《青い窓》は通じている。

約600年の昔、イタリア・ルネサンス人文主義者、レオン・バッティスタ・アルベルティは、著書『絵画論』(1436)の中で、絵画と窓について次のように述べました。
「私は自分が描きたいと思うだけの大きさの四角のわく〔方形〕を引く。これを私は、描こうとするものを通してみるための開いた窓であるとみなそう」
窓は、室内にいるわたしたちに、四角い枠に囲われた外の世界の眺めをもたらしてくれるもの。絵画もまた、「今ここ」にいるわたしたちに、四角い枠に囲われた「ここではない世界」の眺めをもたらしてくれるもの。アルベルティが「絵画=窓」と簡潔に定義して以来、数えきれない画家たちが窓にインスピレーションを受けて作品を制作してきました。(東京国立近代美術館編『窓展:窓をめぐるアートと建築の旅』平凡社/2019/p.10〔蔵屋美香〕執筆)

絵画と窓とは極めて密接な関係を持つ。但し、日本の建築、とりわけ住宅においてガラス窓が取り入れられるのは洋風建築が導入されるとともに、衛生観念の普及などにより採光に対する意識が変化してからである。ガラス窓の普及を象徴するのは、結核の脅威に対処するため日光浴室(サンルーム)である(西川純司『窓の環境史 近代日本の公衆衛生からみる住まいと自然のポリティクス』青土社/2022/p.220-232参照)。
雪岱が手掛けた、里見弴の新聞連載小説「闇に開く窓」(1929年)の挿絵には、サンルームを描いたものや、窓が並ぶ建物(病院?)がある(広瀬麻美編『小村雪岱スタイル 江戸の粋から東京モダンへ』浅野研究所/2021/p.92-93)。これらの挿絵には、雪岱と作家との結び付きがより強く感じられる。病気療養のための建築の窓であり、そこに人影はない。
パンデミックの緊急事態宣言が発出され、なべて住宅は感染症の予防・療養施設と変じた。都市は瞬時にして廃墟となった。否、都市とは常に廃墟を孕んだ存在ではなかったか。

 廃墟という言葉自体はあいまいではない。大きな建物あるいは都市が急にあるいは半永久的に壊れた跡という意味だろうが、私たちはそれぞれが抱く廃墟のイメージあるいは廃墟の情感は、必ずしもそれほど明確ではない。そのイメージないし情感から連想するもの、さらにどうしてそんなイメージに弾かれ、そんな情感におぞましく快く浸るのか、という意識下の動機のようなものは、それぞれにとても微妙に違うだろう。
 私自身について言えば、〈廃墟〉という言葉は明らかに私の意識の総体を形づくる主な基本語のひとつである。最近も処女作以来30年間の短編小説のアンソロジー上下2巻を出版したのだが、そこに収録した16篇の作品を読んだ編集者は、本の帯に「都市・快挙・荒野」(上巻)と大きく印刷し、下巻の帯には「意識・幻影・光」と謳った。
 長編小説やエッセイも含めて私が書いてきたことは、まあそんなことだろうと思うが、私にとって廃墟は荒野あるいは荒地へと連なりながら、私の世界認識、世界表象のいわば土台をなしてきた。
 しかも私にとって廃墟は、決して亡びの、破壊の、無常のネガティブな表象ではなく、無惨哀切な感傷ないし懐旧の対象でもない。そうではなくて世界の真相ないし裸形ともいうべきとても生産的で創造的なポジティヴなイメージであり想念である。廃屋や廃墟そのものを、廃墟を孕んだ都市を、廃墟のある荒地を、私は多くの小説に書いてきた。廃墟のイメージなしに私の文学的創作活動はありえなかっただろう。
 逆に廃墟をポジティヴに自覚したところから私の文学は生まれたとさえ思う。(日野啓三「廃墟 鉱物と意識が触れ合う場所」谷川渥編著『廃墟大全』中央公論新社〔中公文庫〕/2003/p.262-263)

作家の言う「光と影の間」とは、日野啓三の言うところの「廃墟を孕んだ都市」のことではないか。作家は窓を描くことで、都市を、「世界の真相ないし裸形」を、絵画=窓に映し出して見せている。