展覧会『野又穫「Continuum 想像の語彙」』を鑑賞しての備忘録
東京オペラシティ アートギャラリーにて、2023年7月6日~9月24日。
アンビルドあるいは平行世界を思わせる、あり得たかもしれない建造物のある風景を描く、野又穫の個展。1986年の初期作から2023年の最新作までを一堂に集める。ドローイング、立体作品、作品を構想するための資料なども併せて展示される。
《境景 12》(1992)[17]は円形に並ぶ柱と梁で低層部を支えられた温室。温室の鉄とガラスの構造はジョセフ・パクストン(Joseph Paxton)の「水晶宮」を連想させるが、何よりのその球体が、クロード・ニコラ・ルドゥー(Claude Nicolas Ledoux)のアンビルド「畑番の家」やジャン・ジャック・ルクー(Jean-Jacques Lequeu)のやはりアンビルド「地球の神殿」を想起させる。球状の温室(あるいは水槽)は《来たるべき場所 5》(1996)[25]など繰り返し現れるモティーフである。
《境景 10》(1992)[16]に2つの島を繋ぐアーチ状の構造物を描くが、2つの島の美しい円丘は、かつての要塞が打ち棄てられた姿であることを想像させる。中途から草木に覆われている石組みのジッグラトのような塔を描く《境景 1》(1992)[14]は廃墟に見える。ジャン・パオロ・パオロ(Gian Paolo Panini)やユベール・ロベール(Hubert Robert)が手掛けた、遺跡などの建造物に架空の構造物などを織り交ぜて描かれるカプリッチョ(capriccio)の流れを汲むことは明白だ。実際、渋谷区立松濤美術館で開催された『終わりのむこうへ:廃墟の美術史』(2018)では、《交差点で待つ間に》(2013)[78]がジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(Giovanni Battista Piranesi)の《古代アッピア街道とアルデアティーナ街道の交差点》との組でメインヴィジュアルに採用されていた。野又穫の絵画に接して湧く感興は、日野啓三が廃墟に覚えた興趣に等しい。
とりわけペルセポリスの迫力は圧倒的である。いまも聳え立つ円柱、諸民族の朝貢使たちの列の浮彫、ゾロアスター教のアフラ・マズダのシンボルがいまもはっきりと残る壁など、ヘロドトスの『歴史』が記録したペルシア帝国とその文明の偉大さと優雅さが惻々と身に迫る。私は訪れていないがエジプトの多くの廃墟もそうだろう。中国の殷墟でもメキシコのマヤの神殿跡でも。
自分の卑小さを忘れて、人類という進化したサルの脳の偉大さを思う。単に政治力、設計力、建築力だけではなく、それぞれの形で宇宙を構想した魂の神話的想像力に感動する。王城あるいは主神殿は天と地を貫く宇宙の中心だったのだ。
だがそれもいまは無人の廃墟である、という事実は単に無常の感傷を誘う以上のことだ。それらの大帝国、大都市、大神殿でさえ無化する陰々と黒い力が、この宇宙には内在することを想起させる。それは永続を願うあらゆる人間の欲望、祈り、努力を無視する本質的に非人間的な力だ。その絶対的な力をかつて人々は邪神と恐れ悪魔と戦き、いまは熱力学の第二法則(エントロピーの法則)と名づけ、カオスの力とも呼ぶ。多くの廃墟に残る多くの神々の像や浮彫のきびしい表情は、古代の人々もその黒い力を恐れていたことを物語ろう。
従って廃墟は、それが壮大でその荒廃が徹底的であるほど、人間の偉大さと無力さを同時に思い知らせてくれるところなのだ。世界の豊かさ(どんな構想も禁じられていない自由さ)と非情さを共に骨身に実感させるところでもある。つまり人間と世界(宇宙)とが肯定と否定の両面で出会う極限の場所――それが廃墟だ。
そこでわれわれは、かつて創られた王城、宮殿、神殿、都市年などの姿とそこで生死した人たちの魂の息づかいまでを茫々と想像しながら(そのためには多少とも歴史的、宗教的知識が必要である)、眼前に色褪せて聳え残る塔や壁、散在して風に鳴る石や煉瓦の残骸物を、その沈黙を、その無意味を、そのしたたかな実在を、目で耳で皮膚感覚で味わいつくす。繰り返し惹きこまれ突き離され、荒涼と怪しく不毛に、虚しく確かに。
やはり鉱物的でなければならないだろう、しかも個体の。水では想念が流される。植物や動物では想像力が圧し殺してしまう。手ごたえがヤワだ。したたかに突き離されることが必要である、視線も想念も。そう、われわれが隕石の寄り合いかたまった鉱物の巨大な球(原始地球)から発生・進化したのだ、というあられもない始原の事実にまで。
そしてこのわれわれは鉱物が幾度もの相転移を経て意識にまで到達したのだという神秘に、言い難い眩暈と畏敬の念にうたれるのである。(日野啓三「廃墟――鉱物と意識が触れ合う場所」谷川渥編『廃墟大全』中央公論新社〔中公文庫〕/2003/p.269-270)
「沈黙」する「無意味」でありながら「したたかな実在」としての構造物。それらが「隕石の寄り合いかたまった鉱物の巨大な球(原始地球)から発生・進化した」徴として球体構造が繰り返し姿を現わすのではなかろうか。《内なる眺め 1》(2001)[35]や《Alternative Sights-1》(2010)[56]などに見える気球を組み込んだ建築群は、想像力の飛翔が大地=地球との繋がりを保っていることを象徴する。
(略)鉱物の残骸物も、死んだ不動の、固定しきった存在のあり方を示すのではない。この宇宙のどんな小さなものにも、絶対の終局つまり死というものはない。死とはあるレベルでの秩序の弛緩ないし崩壊であって(何より意識という最高度に複雑精妙な機能の)、よりカオス的なレベルに戻った構成要素たち(水、炭素、燐酸、カルシウムなど)は直ちにあの宇宙の方向性ある力に巻きこまれて動き始める。再びより複雑でより不安定な構成物を形づくるために。
廃墟は永遠ではない。そこで永遠を、聖なる気配を感ずるとしたら、それは死んだ不動の永遠ではなく、われわれがこの宇宙の永遠のドラマにかかわっている、という感動ないし畏怖の念でなければならない。
かつてのより安定した在り方の記憶を深く留めながら、荒廃の威厳と美をいましばし虚無の只中に現出しているほとんど聖なる廃墟。懐かしく畏るべきもの。怪しく意識の最深部を魅惑してやまない不安なもの精妙に絡みあった陰影。
それはまさしく私たち自身の姿ではあるまいか。(日野啓三「廃墟――鉱物と意識が触れ合う場所」谷川渥編『廃墟大全』中央公論新社〔中公文庫〕/2003/p.275-276)
《blue construction 1》(2011/2012)[60]《blue construction 1》(2011/2012)[60]には、周囲を威圧するように聳える直方体に近い高層ビルが描かれる。その表面はのっぺりとした光で覆われ、まるでスマートフォンのようだ。実際、都市の建築はガラスではなく巨大なディスプレイが覆うようになった。杉本博司の「劇場」シリーズのように、ディスプレイで覆われた建築を長時間露光で撮影すれば、白い光だけが姿を現わすだろう。そして、ディスプレイ建築の立ち並ぶ街を行く人々もまた、スマートフォンを片手に歩いている。やはり作家の描き出す建築≒廃墟は「まさしく私たち自身の姿」なのである。