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芸術鑑賞の備忘録

映画『658km、陽子の旅』

映画『658km、陽子の旅』を鑑賞しての備忘録
2022年製作の日本映画。
113分。
監督は、熊切和嘉。
原案は、室井孝介。
脚本は、室井孝介と浪子想。
撮影は、小林拓。
照明は、赤塚洋介。
録音は、吉田憲義。
美術・装飾・持道具は、柳芽似。
衣装は、宮本茉莉。
ヘアメイクは、河本花葉。
編集は、堀善介。
音楽は、ジム・オルーク

 

庶民的なアパートの1室。工藤陽子(菊地凛子)がラップトップに向かってキーを叩いている。PCのチャットサポートサーヴィスで相談者に回答するのが陽子の仕事だ。台所で薬罐が高い音をたてる。火を止めに行き、マグカップに湯を注ぐ。飲み物を手に戻ると、新たな相談が届いていた。電源ボタンを長押しして電源を切ってから、コンセントを抜いて下さい。早速アドヴァイスを打ち込む。問題は解決しましたか? 1件の処理を終え、電子レンジで暖めたイカスミのスパゲティを取りに行く。テーブルに戻ると、画面には最大で星5つの評価に対して星半個。時間の無駄だったとのメッセージが届いていた。陽子は遣り切れない思いをするが、怒りをぶつけることもできない。イカスミのスパゲティを割り箸で口に運ぶ。
明治神宮外苑では銀杏が8割方色付き、外国人観光客も多く訪れています。六義園では…。テレビは紅葉シーズンの到来を報じていた。宅配業者が段ボールを3つほど届けに来る。陽子が部屋の中に一度に運び込もうとして、重ねた荷物を崩してしまう。段ボールの下敷きになったスマートフォンの画面が割れ、電源が入らなくなってしまった。すぐさまスマートフォンのチャットサポートサーヴィスにアクセスしたが、暫し思案して、相談はしなかった。
夜、ベッドに横になった陽子は、ラップトップで海外ドラマを見て笑う。
ドアが叩かれる。陽子、従兄の茂。工藤茂(竹原ピストル)が陽子を呼ぶ。ドラマを見ながら寝落ちした陽子は泥のように眠っていた。陽子、いるか? 茂は次第に強くドアを叩き、声を大きくする。ようやく陽子が目を覚まし、ベッドから起き上がるとドアへ向かう。ドアを開けると茂が立っている。久しぶりだな。里子ちゃんが連絡がつかないって。…昨日ケータイ壊れた。小声で呟く陽子。あのな、実は昨日伯父さんが亡くなった。急性大動脈解離。知らないよな。大動脈が破れて、病院に運ばれたときにはもう意識は無かったらしい。頑張ったけど、昨日の晩に亡くなったって。喪主は里子ちゃんがやることになった。今から青森行くから。夜には着く。里子ちゃんからお姉ちゃんを連れて来てって頼まれてるんだ。喪服あるか? 急だから。必要なもんだけ詰めて降りて来い。下で待ってるから。陽子は頭を掻く。
とりあえず大きなバッグに荷物を詰めた。だが陽子は襖にもたれて動かない。待ちかねた茂が部屋に入って来る。行くぞ。茂はバッグを確認する。財布は? ケータイは? ケータイは壊れてるからいいか。ショックだと思うけど、行くぞ。茂はバッグを持ち、陽子の腕を取って立たせる。ちゃんとお別れしないと駄目だ。俺がついててやるから。茂が先に玄関を出て、階段を降りる。後からゆっくり歩く陽子。黒い服に白いスニーカーを履いている。アパートの前に茂の白い車が停まっている。陽子は助手席の茂の妻と軽く会釈を交わす。茂は陽子を後部座席に座らせ、運転席に廻る。
茂の運転する自動車が高速を走る。茂の娘は国語の教科書を取り出して、後ろの席の陽子に物語を知ってるか確認したり、お祖父ちゃんがこの世からいなくなったんだよと言ってくる。子供たちも帰省する度に伯父さんと会ってたんだ。茂の息子は、目にする車の車種をいちいち馬鹿でかい声で言う。母親が娘に弟を静かにさせるように言い、娘は飲み物を飲ませて黙らせようとするがうまく行かず断念する。あまいろの~、ながいかみを~、かぜがや~さしくつつ~む~、おとめは~むね~にし~ろい~、はなた~ば~を~。茂がハンドルを握りながら歌う。陽子、この曲、知ってるか? 伯父さん、よく歌ってた。自動車の走行音も、茂の娘の朗読も、茂の息子の車種の叫び声も遠のき、茂の歌声だけが陽子の耳に届く。そして、気が付くと、陽子の隣には、18歳で別れたきりの父・昭政(オダギリジョー)の姿があった。

 

18歳のとき青森の実家を家出同然で飛び出した工藤陽子(菊地凛子)は、夢破れ、42歳になった今、東京の自宅アパートでPCのチャットサポートサーヴィスをしながら食いつないでいる。ラップトップに向かって仕事をし、ネットで買った食事をとり、ラップトップでドラマを見る。宅配の荷物を落としてスマートフォンを壊してしまったが、連絡を取る相手もいない。ところが翌朝、従兄の工藤茂(竹原ピストル)が突然姿を現わす。前日の晩、陽子の父・昭政(オダギリジョー)が倒れ、救急搬送先の病院で亡くなった。陽子の妹の里子が姉と連絡がとれないからと、茂に姉を拾って葬儀に連れて来るよう頼んだのだ。陽子は茂の妻、娘、息子とともに青森に向かう。陽子は茂が父の好きだった歌を口遊んだのをきっかけに、父の記憶が徐々に蘇る。立ち寄った友部サービスエリアでは、水戸黄門の顔出し看板を見付けて、渋滞で苛ついた父親が休憩を台無しにしたことを思い出した。駐車場に戻った陽子は茂の車を見付けられない。茂は巫山戯ていた息子が怪我をしたために慌てて病院に向かったのだった。スマートフォンもなく、小銭入れに2000円ほどしかない陽子は一人途方に暮れる。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

東京で一人暮らしをしていた陽子は、急逝した父の葬儀に参列するため、従兄の茂一家とともに実家に向かう。陽子は18歳で夢を叶えようと家出同然で実家を出て、以来、父には会っていなかった。夢を叶えることができず、人付き合いも断ち、鬱屈した日々を送っていたが、大口を叩いて飛び出した手前、実家を頼ることもできなかったのだ。
車中、茂が父の好きだった歌を口遊む。自動車の走行音、耳を劈く茂の子供たちの騒ぎ声が消え、その歌だけが陽子に聞こえてくる。気が付くと、陽子の隣には、父の姿がある。陽子に父の記憶が蘇り始めた。
気が付けば、陽子は、自分が家を飛び出したときの父の年齢になっていた。父は自分勝手な「大人」だと思っていたが、家庭を持ち、家族サーヴィスも怠っていなかったと思い至る。
従兄の茂は家庭を持ち、2人の子を育て、実家にも定期的に帰省している。妹は喪主として立派に務めを果たしている。自分の卑小さを思い知らされ、陽子は打ち拉がれる。
木下夫妻(吉澤健・風吹ジュン)の車に乗せてもらった陽子は、記憶の中の父ではなく、20歳年を重ねた父の姿を想像する。朴訥な農夫からヒッチハイクは危ないと窘められた陽子は、彼に父の姿を重ねる。陽子は親切にしてくれた2人に握手を求める。何もない陽子に出来ることはそれだけだった。だが、2人の反応は、それだけでいいのだと陽子に教えた。陽子は、出棺前に、何としても帰省しなければならないと決意する。
父親との距離を縮めた、658km、陽子の旅。