可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 コニェッティ『帰れない山』

パオロ・コニェッティ『帰れない山』〔新潮クレスト・ブックス〕新潮社(2018)を読了しての備忘録
Paolo Cognetti, 2016. "Le otto montagne".
関口英子訳

序章と「子供時代の山」・「和解の家」・「友の冬」の三部構成。

ミラノで暮らすピエトロは、夏をモンテローザ山麓のグラーナ村で過すことになった。ヴェネトの農村出身の父は、母の弟ピエロの友人で、ピエロの登山中の事故死をきっかけに母と結婚して故郷を離れ、2度と戻らなかった。母は故郷に代わる別荘をグラーナ村に求めた。そこでの母は娘時代の姿を取り戻して溌剌とし、8月になって一時仕事漬けの日々から解放された父も別の顔を見せた。
ピエトロはブルーノという同い年の牛飼いの少年(実の父は出稼ぎに出ていて伯父夫婦の牧場で暮らす)と出会う。一人っ子の都会の少年ピエトロは、ブルーノにどう接していいか分からない。誰とでもスムーズに関係を築ける母が見かねて仲を取り持ってくれたことで、二人の交流が始まり、夏の日々をともに過すようになった。
8月に入ると、ブルーノが高原牧場の仕事で去る一方、休暇を取った父がグラーナ村を訪れた。ピエトロは、なにかと張り合うように急いで山頂に到達し、すぐさま下山する父の登山に同道する。
休暇を終えてミラノに戻ったピエトロは山への郷愁に囚われる。

 当時の僕にとって、冬は、山への郷愁にひたる季節となった。(略)
 (略)
 こうして、ようやく僕も山の恋しさがわかるようになった。それまで何年ものあいだ、山への郷愁に駆られる父のかたわらで、理解できずにただ見ていたのだが、いまでは僕も、大通りの突きあたりでいきなり不意に姿を現わすグリーニャ山に心を奪われるようになった。(略)
 月日が経つにつれて、日焼けしていた僕の脚は青白くなり、引っかき傷やかさぶたはきれいになり、刺草にかぶれたときの痒みも、靴下も靴も履かずに浅瀬を渡ったときの氷のような冷たさも、午後じゅう陽射しを浴びたあとでひんやりとしたシーツに包まれたときの安堵感も忘れてしまうのだった。冬の都会には、おなじくらい強烈に僕の心を打つものはなにひとつなかった。そんな色眼鏡越しに眺めていたせいで、都会は僕の目には色褪せてぼんやりしたものとしか映らず、日に二度、朝と夕方に通り抜けなければならない、人と車の大群でしかなかった。窓から大通りを見下ろすと、グラーナ村で過した日々があまりに遠く感じられ、果たして本当に自分が存在していたのだろうかと自問したくなるのだった。僕が勝手に考え出したものなのかもしれない。あるいは夢に見ただけなのかも……。(パオロ・コニェッティ〔関口英子〕『帰れない山』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2018/p.63-65)

本作は、ピエトロと、彼が多感な時期の夏を過したグラーナ村を抱くアルプスの山々とそこに暮らすブルーノとの交流を描く。

山男のブルーノは「直接に触れられる」もので思考する。

 (略)なかば崩壊し、藪に覆われた運搬用のロープウェイの終点。焚火で黒ずんだ地面からのぞく、かつて炭焼き用の穴があったと思われる乾いた層。森にはそうした遺構や堆積物、廃材がそこここにあり、ブルーノはそれらを見つけるたびに、消滅した言語で書かれた符号かなにかのように、その意味を解読してくれた。符号だけでなく、方言も教えてくれた。僕にはそれが、イタリア語よりもふさわしい言葉のように思えた。手で万物に直接に触れられる山においては、本のなかの抽象的な言語を、事物に即した具体的な言語に置き換える必要があるとでもいうように。(パオロ・コニェッティ〔関口英子〕『帰れない山』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2018/p.67)

それに対して都会の人間は抽象的に思考する。それは山男=ブルーノにとって「ユートピアごっこ」にしか見えない。

 (略)「自然」なんて呼ぶのは、おまえら都会の人間だけだ、とも言っていた。都会人の頭のなかではあまりにも抽象的な存在だから、名称まで抽象的になってしまう。俺たち山の人間は、「森」「放牧地」「渓流」「岩」と、指で示せるものの名前しか口にしない。どれも実際に使えるものばかりだ。使えないものは役に立たないから、名前なんて不要なのさ。(パオロ・コニェッティ〔関口英子〕『帰れない山』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2018/p.184)

後にピエトロがネパールの子供たちの支援活動に携わるとき、「教科書を使って英語や算数を教え」るのではなく、山男=ブルーノによる実用的な指導を夢想する((パオロ・コニェッティ〔関口英子〕『帰れない山』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2018/p.229-230参照)。
因みに、ブルーノは母親似である。一人で寡黙に生きる母親こそ山の民であった。しかし、女性が森に一人で籠もることに対しては「魔女」と否定的な評価が下されるのだ(パオロ・コニェッティ〔関口英子〕『帰れない山』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2018/p.171-172参照)。
ピエトロの父ジョヴァンニは「特殊な技能を持ち、極寒や窮乏に対してもずば抜けた耐久力を持っていた」山岳の民に対して畏敬の念を抱いていた(パオロ・コニェッティ〔関口英子〕『帰れない山』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2018/p.41参照)。父の山岳民に対する敬意は、息子と同い年のブルーノに対しても向けられ、それを意気に感じたブルーノもまたピエトロの父に対して信頼を寄せることになるだろう。
ピエトロと父がブルーノを交え3人で氷河に登ったことが一度だけあった。

 (略)やっとの思いでクレバスの縁にたどり付いたとき、前にいたブルーノは、身を乗り出して下をのぞいていた。父が、深呼吸して思い切って跳ぶようにとブルーノに助言する。順番を待つあいだ、僕は後ろをふりかえった。僕たちのいる場所の下は、傾斜が急になっており、氷河が遭われてそそり立つセラック(氷塔)を形成していた。見るからに不安を煽る、その裂けて崩れ、退席した氷の塊のむこうでは、いましたが後にした山小屋が霧に呑み込まれかけていた。それを見た僕は、二度と引き返せないと思った。勇気づけてもらいたくてブルーノの視線を求めたが、すでに彼はクレバスの向こう側にいた。父がブルーノの肩を叩きながら、見事なジャンプだと褒めそやしている。でも、僕には無理だ。むこう側に飛び移ることなんてできっこない。そう思った瞬間、僕の胃が音をあげ、朝食べたものを雪の上に吐いてしまった。こうして、それまでひた隠しにしてきた僕の高山病が父の知るところとなった。(パオロ・コニェッティ〔関口英子〕『帰れない山』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2018/p.60)

息子の高山病を知った父は即座に下山の決断を下す。結果、ピエトロだけがクレバスを越えられなかった。

 「それにしても、あのクレバス、すごかったな。のぞいてみたか?」途中でブルーノが尋ねてきた。「信じられないくらい深かったよ」
 僕は返事をしなかった。クレバスの向こう側で、まるで本当の父子のように寄り添って喜び合う父とブルーノの姿が、瞼の裏にまだ焼きついていたのだ。(パオロ・コニェッティ〔関口英子〕『帰れない山』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2018/p.62)

後にピエトロと父との間に「信じられないくらい深」い断絶が生まれ、他方、山男=ブルーノと父との間には固い絆が生まれることになる。
「山に登ることは自分にとって人生をふりかえる手段なのだ」と山で出遭った初老の紳士が語る(パオロ・コニェッティ〔関口英子〕『帰れない山』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2018/p.166参照)。山は記憶装置なのだ。父も氷河を記憶に擬えている。

 (略)氷河というのはな、と山道で僕とブルーノに言った。我々のために山が大切にしまっている過ぎ去った冬の記憶なのさ。山は、その記憶を一定以上の高さに保管する。だから、遠い昔の冬について知りたかったら、その高さまで登らないといけないんだ。(パオロ・コニェッティ〔関口英子〕『帰れない山』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2018/p.54)

父の死後、父から残された土地を確認しに行くため、ピエトロは久しぶりにグラーナ村を訪れる。

 一連の変化にすっかり気落ちしかけていた僕は、なにか強く惹かれた気がして、フロントガラスの前で身をかがめて上方を見た。よぞらに浮かび上がった白い輪郭が、独特の仄明かりを放っていた。それが雲ではないとわかるまでに、しばらくの時間を要した。まだ雪を戴いた峰々だったのだ。四月なのだから、雪が残っていることぐらい予想できそうなものだが、都会では春ももう盛りを過ぎていたし、山の上に行くにつれて季節が逆戻りすることを僕はすっかり忘れていた。山の上に残る雪は、麓の集落の衰頽ぶりに落胆しかけていた僕を慰めてくれた。
 その瞬間、僕は、自分が父のよくしていた動作をなぞっていることに気付いた。運転している最中に、身をかがめて上目づかいに空を見る父の姿を、幾度となく見たことがあった父はそうして雲行きを確かめることもあれば、山の斜面の状態を観察することも、ただ山容に見惚れていることもあった。(パオロ・コニェッティ〔関口英子〕『帰れない山』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2018/p.113)

ピエトロは山を見て、父を思い出す。山はやはり記憶装置なのだ。
だが、山は過去であると同時に、未来でもある。少年時代、川の水が流れる時間として現在いる地点に対して未来はどちらかと父に尋ねられたピエトロは、川遊びの体験を通じて、未来は山にあると悟る。山は未来でもある。記憶を頼りに、ピエトロは父の姿に自らを重ね合わせる。若い時分には分からなかった父の思いがどんなものだったのか、ピエトロには手に取るように分かる。ピエトロは、父との間にある深い断絶を、未来に埋めていくことになるのだ。
ところで、原題"Le otto montagne"は「8つの山」を意味する。主人公のピエトロが年老いたネパール人から聞いた須弥山を中心とする仏教的世界観を指す(パオロ・コニェッティ〔関口英子〕『帰れない山』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2018/p.180)。ピエトロはブルーノにも話して聞かせる(パオロ・コニェッティ〔関口英子〕『帰れない山』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2018/p.228)。シンボリックなイメージを喚起させる言葉ではあるが、崇高な山々の懐に抱かれた男たちの物語の重厚感に比して表層的な感は否めない。日本語題「帰れない山」は本文最終段落の「人生にはときに帰れない山がある」に基づく(パオロ・コニェッティ〔関口英子〕『帰れない山』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2018/p.262)。過去であると同時に未来でもある山を表現しながら郷愁に誘う「帰れない山」という日本語題は秀逸だ。

映画『帰れない山(Le otto montagne)』(2022)では、ピエトロと父≒ブルーノ≒山に焦点を絞っているが、父の仕事場での姿(工場の描写)やピエトロと恋人との関係は原作に肉付けされている。ピエトロの一家はミラノではなくトリノに暮らしている。叔父ピエロを失った両親の過去(ピエトロは両親にとって叔父の生まれ変わりである)やそれにも関連する終盤の雪崩、ピエトロのスポーツ・クライミングなど割愛された部分がある。