可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 菅野由美子個展(2023)

展覧会 菅野由美子展を鑑賞しての備忘録
ギャルリー東京ユマニテにて、2023年9月19日~10月7日。

骨董の器ないしカトラリーを取り合わせて壁龕や台などに並べた油彩画13点で構成される、菅野由美子の個展。
骨董の器が惑星に見えて来る。ならば画面の中(室内)は宇宙である。そして、画面の片隅に表わされる闇は無辺際の宇宙へ通じる。あるいは、壺の中には当然「壺中の天」が存在するだろう。壺、室内、室外、と宇宙は入れ籠である。絵画の並ぶ展示空間もまた宇宙であり……。

《nine_15》(1167mm×1167mm)には、壁際の棚の上に並べられた、白磁や染付などの壺や水注、琺瑯引きのポット、種々の窯の平形や馬盥の皿など9点が描かれる。左隣の《seven_4》(456mm×911mm)――虹色のセロファンラップのような画面も要注目――が幅の狭い窪みに横一列に7つの器が整然と並べることに比して雑然と並べられながらも、正しく配置されているとの感懐を生じさせる構成の妙がある。その感懐は、個々に異なる焼き物の素地や釉薬による表情の違いを描き分ける筆の精緻さよって高められよう。台と同系色の黄土色の壁の最上部には高窓があり、漆黒の闇が覗く。その闇と対照的な光が斜めに差し込み、壁の中央を明るく照らし出す。どこまでも続くような闇は無限の宇宙への連想を想起させる。そのとき、眩しい光は太陽を、9つの器は太陽系の惑星――準惑星冥王星を含めさせてもらおう――に擬えられる。画面が湛える静謐は、宇宙空間との類比によると言っても過言ではあるまい。
《nine_1》(1456mm×728mm)では、アンティークのオイルボトルやペッパーミルも含めた9つの器が描かれる。それらは暗い群青の台に置かれているが、その台は気が付くと壁となっている。空間感覚を惑わせるのは台と壁との一体化だけではない。近くに置かれた器から伸びる影がそれぞれ別方向に伸びているのだ。極めつけは、画面最上部の漆黒の穿たれた穴に浮かぶ蓋付壺である。縦に長い画面の下部には染付の茶碗が伏せて置かれ、画面上部に向かって、幅が狭く高さのある器、あるいは立てた平皿を配すること徐々に安定感を失わせていく。蓋付壺が中空に浮くのが必然かのように仕組まれているのである。やはり闇が象徴する宇宙への志向が認められよう。
宇宙は闇の中だけではない。焼き物の中にも広がっている。壺中の天である。

 ブロブディンナグ国に漂着して、初めて巨人の姿を目撃したレミュエル・ガリヴァー氏は、次のような感慨を洩らす。「大小は要するに比較の問題だと哲学者は言うが、まことにもってその通り」と。
 たしかに、比較しなければ大小はあり得ないので、小人も巨人も、他と比較した上で、初めて小人であり巨人であるにすぎない。絶対的な小人や巨人というものは存在せず、あらゆる小人や巨人は相対的な存在なのである。もしも私たちが夜、眠っているうちに、部屋やベッドとともに百倍の大きさに成長していたとしても、朝になって、その異変に気がつくものはいないにちがいない。というのは、ベッドと私たちとの大きさの関係は、この場合、少しも変化してはいないからである。ライプニッツが証明したように、世界全体が膨張するならば、私たちの目には、何も変化したようには見えないのである。同様に、世界全体が縮小したとしても、やはり私たちはそのことに全く気がつかないだろう。私たちはハムレットのように、「たとえ胡桃の殻のなかに閉じこめられていようとも、無限の天地を領する王者のつもりになれる」のだ。こんなことは当たり前の話で、わざわざ強調するまでもないことのように思われるかもしれない。しかしながら、私たちを陶然たる幻想の気分に誘い込むガリヴァー・コンプレックスは、すべて、この単純な比較の問題、相対性の問題から出発しているのである。
 ハムレットの胡桃の殻は、ただちに私たちに壺中天の故事を思い出させるだろう。後漢の時代に壺公という仙人が、昼間は市中で薬を売り、つねに一個の空の壺を屋上に懸けておき、日が暮れると跳びあがって壺中に入る。これを見て、その秘密を知りたいと思った町役人の費長房が、苦心の末に仙人に許されて、ともに壺中に跳びこむと、そこはすでに小さな壺の内部ではなく、楼閣や門や長廊下などの立ち並ぶ仙宮の世界だった、というのである。小宇宙はすべて、大宇宙の忠実な似姿なのであり、私たちの相対論的な思考は、そこに必ずミニアチュールの戯れを発見するのである。ニコラウス・クサーヌスは、これを無限という還元から見て、最大のものは最小のものと一致する、つまり「反対の一致」ということを唱えた。
 「巧みに世界を縮小することが可能であればあるほど、私たちは一層確実に世界を所有する。しかもそれと同時に、ミアチュールにおいては価値が凝縮し、豊かになることを理解しなければならぬ。ミニアチュールのダイナミックな効果を知るためには、大きなものと小さなものとのプラトン的な弁証法だけでは十分ではない。小さなものの中に大きなものがあることを体験するためには、論理を超越しなければならない」とガストン。バシュラールは『空間の詩学』のなかで述べているけれども、私たちはそれぞれ、想像力の働きによって、いとも容易に論理を超越し、ミニアチュールの世界に跳びこむのである。(渋澤龍彦『新装新版 胡桃の中の世界』河出書房新社河出文庫〕/2007/p.261-263)

描かれた器の中、器の置かれた室内、画中の部屋の外の闇と、宇宙は入れ籠になっている。さらに、個々の絵画もまた宇宙であるなら、絵画を展示する空間もまた、と入れ籠はさらに重なっていく。

《four_14》(804mm×804mm)は一見すると、台、壁龕、窓のある黄土色の壁の空間に置かれた8つの器が置かれた様子である。下段の棚に並ぶのは、茶色釉薬の平形と蛸唐草の高台付きの椀形、白磁の湯飲みと水注の4点である。中段の壁龕らしき場所には、茶色い茶碗と蛸唐草の器が上下に圧縮された形で描かれ、その右側には白磁の湯飲みと水差が上下に引き伸ばされた形になったものが配されている。しかも下段のイメージをコピーして切り取ったように、壁龕や壁から浮き立っている。そもそも下段の棚すらも、室内の台の位置に貼り付けたものらしい。柱や窓などもところどころでコピーして貼り付けたような観を呈している。これは一体何を表現しているのか。宇宙を描く絵画という解釈を前提にすれば、マルチバース(多宇宙)を表現していることになろう。

 無限に広がる空間のほとんどすべては、観測可能な領域の外にある。遠方で放出された光が望遠鏡で見えるのは、その光がわれわれに届くだけの時間がある場合だけだ。光がその旅に使える最大の時間――ビッグバンから今日までに経過した時間、138億年――から、われわれが勝手に選んだ方角で観測可能な最大の距離は、約450億光年であることがわかる(138億光年だろうと思われるかもしれないが、光が旅をしているあいだにも空間は膨張するため、光が踏破する距離はそれよりも長くなるのだ)。もしあなたが、地球からの距離がそれ以上ある遠い惑星に生まれ育ったとすると、あなたと私がこれまでにコミュニケーションをとったり、互いに直接的に影響を及ぼしあったりするすべはなかったことになる。そこで、宇宙は無限に広がっていると仮定して、互いに無関係に進化してきた直径900億光年の空間領域が、パッチワークのようにつながっているものと想像しよう。物理学者たちは、そんな空間領域のひとつひとつを、他とは切り離された独自のユニバース(宇宙)と考え、それらをすべて合わせたものを、マルチバース(他宇宙)と考えるのが気に入っている。そう考えれば、無限に広がった空間は、無限に多くの宇宙を含む多宇宙ということになる。
 そんな無数の宇宙について調べるうちに、物理学者のジャウメ・ガリガとアレックス・ヴィレンキンは、ある重要な特徴を明らかにした。それぞれの宇宙の歴史を映画にして次々と見ていけば、映画のすべてが互いに違ったものにはなりえないということだ。ひとつひとつの領域のサイズは有限で、各領域に含まれるエネルギーは、大きな値ではありにせよ有限だから、現われる歴史は有限な数にしかなりえないのだ。あなたは直観的に、それとは別の可能性を考えるかもしれない。どれかひとつの歴史が与えられたとき、この粒子をあちらに、あの粒子をこちらに移動させて、歴史に修正を加えることはつねに可能だから、歴史には無限にさまざまなものがあるのではないか、と。ところが、量子力学が絡むと話は変わってくるのである。もしも修正が小さすぎると、その修正による変化は、量子的な不確定性のために生じるあいまいさよりも小さくなり、修正をする意味がなくなってしまう。一方、もしも修正が大きすぎると、粒子立ちは、最初に設定した領域から飛び出したり、粒子のエネルギーが可能な範囲を超えたりしてしまう。このように、小さなスケールと大きなスケールのどちらからも制限がつくため、歴史の修正には限界があり、異なる映画の数は有限な値にしかなりえないのだ。
 さて、無限にたくさんの領域と、有限な数の映画があれば、単純に映画の数が足りない。われわれは間違いなく、同じ映画を見ることになるだろ。それどころか、映画は無限回上映されるだろう。またどの映画もかならず上映される。どれかの歴史を、他のどの歴史とも違ったものにする量子のゆらぎはランダムなので、起こりうる粒子配置はすべて無作為に抽出される。取りこぼされる歴史はない。そのため、無限の宇宙の集まりは実現可能な歴史のすべてを実現させ、どの歴史も無限回実現することになるのである。
 そこから、ある奇妙な結論が導かれる。あなたと私、そしてほかのすべての人たちが経験しているこの宇宙は、どこか別の領域――別の宇宙――で、繰り返し実現するということだ。物理法則によって厳密に禁止されていないどんな方法で宇宙に修正を加えても(たとえば、エネルギー保存則や、電荷の保存則を破るような修正をすることはできない)、そうして修正された宇宙は、どこかの領域で実現する。しかも繰り返し実現する。だとすれば、別の歴史が実現する領域もあるだろう――リー・ハーヴェイ・オズワルドがケネディ暗殺に失敗したり、クラウス・フォン・シュタウフェンベルクヒトラー暗殺に成功したり、ジェームズ・アール・レイがキング牧師の暗殺に失敗したりする宇宙もあるだろう。量子力学の熱烈なファンなら、この話は、いわゆる量子の多世界解釈と似ていることに気づくだろう。多世界解釈によれば、量子の法則に抵触しないありとあらゆる結果が、それぞれ別の宇宙で実現する。物理学者たちは、量子力学へのこのアプローチは、数学的に意味があるのかないのか、そして、もしも意味があるなら、われわれの宇宙以外の多くの宇宙は実在するのか、それとも有益な数学的虚構にすぎないのかについて、もう半世紀以上も論争を続けてきた。ここで説明している宇宙論の多宇宙理論と、量子力学多世界解釈との本質的な違いは、宇宙論の多宇宙論では、他の世界――他の領域――が実現するかどうかは、解釈の問題ではないということだ。もしも宇宙空間が無限に広がっているのなら、他の領域は、間違いなくどこかに存在するのである。(ブライアン・グリーン〔青木薫〕『時間の終わりまで 物質、生命、心と進化する宇宙』講談社/2021/p.492-494)

《four_14》が描くのは、「あなたと私、そしてほかのすべての人たちが経験しているこの宇宙」が、「物理法則によって厳密に禁止されていないどんな方法で宇宙に修正を加えても」、「どこか別の領域――別の宇宙――で、繰り返し実現する」ことであった。