可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 川内倫子個展『M/E 球体の上 無限の連なり』

展覧会『川内倫子 M/E 球体の上 無限の連なり』を鑑賞しての備忘録
東京オペラシティ アートギャラリーにて、2022年10月8日~12月18日。

「母なる大地」を表わす"Mother Earth"の頭文字であるとともに「私」を表わす"ME"でもある"M/E"を冠した、川内倫子の写真・映像展。「4%」シリーズ、「An interlinking」シリーズ、「あめつち」シリーズ、表題作「M/E」シリーズなどの写真の連作と、映像作品などで構成。

冒頭、「M/E」に籠められた、アイスランド休火山の内部から火口を見上げたときの地球の胎内にいるような感覚、「地球と自分自身が反転して一体化したような不思議な感覚」についての作家のステートメントとともに展示されるのは、結晶のような構造によって乱反射した光が緑や紫などを呈する内部を持つ球体とそこから延びる影とを撮影した作品。光のあるところに影が存在することを訴える。ギャラリー1は区切られて、細い通路が作られている。それは生へと向かう産道であり、死へと向かう羨道でもある。それは《One surface》と題された、一部屋を用いたインスタレーションによって鑑賞者に示される。薄暗い展示室の壁に、壁の光と影とを映すモノクロ―ムの写真を展示している。作品保護のためのアクリル板に鑑賞者がぼんやりと映り込む。のみならず、部屋の中央には、縦長の薄布(オーガンジー)に同じ写真を印刷したものを垂らしている。鑑賞者はイメージの中に入り込むのである。すなわち写真に魂を抜かれ、「むこうぎし」へ渡るのだ。スピーカーからは、作家が「むこうぎしからようこそ/ここはどちらがにもつながっています」と訴えている。
思えば、写真は、幼くして亡くなった子供など死者の姿を記録するために用いられた。写真とは、そもそも冥府下りとも言えるのだ。だがオルフェウスイザナギが示す通り、死者を連れ戻すことは叶わない。写真を眺める者は、「むこうぎし」から1人で戻ってこなくてはならない。

 ブロブディンナグ国に漂着して、初めて巨人の姿を目撃したレミュエル・ガリヴァー氏は、次のような感慨を洩らす。「大小は要するに比較の問題だと哲学者は言うが、まことにもってその通り」と。
 たしかに、比較しなければ大小はあり得ないので、小人も巨人も、他と比較した上で、初めて小人であり巨人であるにすぎない。絶対的な小人や巨人というものは存在せず、あらゆる小人や巨人は相対的な存在なのである。(略)ライプニッツが証明したように、世界全体が膨張するならば、私たちの目には、何も変化したようには見えないのである。同様に、世界全体が縮小したとしても、やはり私たちはそのことに全く気がつかないだろう。私たちはハムレットのように、「たとえ胡桃のなかに閉じこめられていようとも、無限の天地を領する王者のつもりになれる」のだ。こんなことはわざわざ強調するまでもないことのように思われるかもしれない。しかしながら、私たちを陶然たる幻想の気分に誘いこむガリヴァー・コンプレックスは、すべて、この単純な比較の問題、相対性の問題から出発しているのである。
 ハムレットの胡桃の殻は、ただちに私たちに壺中天の故事を思い出させるだろう。後漢の時代に壺公という仙人が、昼間は市中で薬を売り、つねに一個の空の壺を屋上に懸けておき、日が暮れると跳びあがって壺中に入る。これを見て、その秘密を知りたいと思った町役人の費長房が、苦心の末に仙人に許されて、ともに壺中に跳びこむと、そこはすでに小さな壺の内部ではなく、楼閣や門や長廊下などの立ちならぶ仙宮の世界だった、というのである。小宇宙はすべて、大宇宙の忠実な似姿なのであり、私たちの相対論的な思考は、そこに必ずミニアチュールの戯れを発見するのである。ニコラウス・クザーヌスは、これを無限という観点から見て、最大のものは最小のものと一致する、つまり「反対の一致」ということを唱えた。(澁澤龍彦『新装新版 胡桃の中の世界』河出書房新社河出文庫〕/2007年/p.261-263)

例えば、雪の結晶とクモの巣。鳥と飛行機、蛇と蛇行する河。作家が繰り返し提示するのは、「小宇宙はすべて、大宇宙の忠実な似姿なのであり」、「最大のものは最小のものと一致する、つまり『反対の一致』ということ」だ。

川や間欠泉、雨や雪、雲など様々な形で鑑賞者へ繰り返し提示されるのが水だ。天井から床へ投影された、主に川の水面の映像作品《A whisper》では、鑑賞者は流れに浸る感覚を味わう。あるいは《M/E》シリーズの展示空間に設置された霧のようなカーテンで覆われた洞穴に鑑賞者は入り込む。作家は、水が子宮であり、無限を表わすものであると訴えているのだろう。

 プラトンは、『ティマイオス』において、「コーラ」を、こう説明している――以下、『プラトン全集12』(岩波書店、1975年)に収録された種山恭子訳を参照し、引用する(ただし訳語を一部変更した箇所もある)。まず、「コーラ」(「場」)という名前が与えられる前に、プラトンは、こう語っている。あらゆるものが生成される際、その養い親となるような「受容者」が存在していることを認めなければならない。たとえば「水」のような……。「水」は、凝固すると固体(石や土)の性質を示し、融解したり分解したりすると気体(風や空気)の性質を示し、それが燃え上がると火になり、濃密になると雲や霧となり、さらにそれが圧縮されると水が生じる。「水」は世界を循環しつつ、さまざまなものに変身し、さまざまなものが生み出されてくる母胎となる。
 プラトンは、こうまとめている。この世界には3つの「種族」が存在している。「生成するもの」、「生成するものが、それのなかで生成するところの、当のもの」、「生成するものが、それに似せられて生じる、そのもとのもの」(すなわち「モデル」)。2番目に言及された「受け容れるもの」が母、最後に言及された「似せられるもとのもの」が父、最初に言及された「生成するもの」こそが子であり、それは父と母の結合から生まれる。これらのなかで、「母であるとともに受容者であるもの」を「コーラ」と呼ぶ。「コーラ」とは「場」の種族である。「場」は、形をもたなくて形を与えるものであり、生成されたあらゆるものを受け入れるとともにそこであらゆるものを生成して現実に産み落とすものである。「イデア」(「あるもの」「もとのもの」)と「コーラ」(「場」)と「生成」、すなわち、父と母と子。父(イデア)と母(コーラ)が結合することで、子(事物、生成された具体的な個)が産み落される。宇宙は、そうした3つの種族からなっている。
 西田幾多郎の哲学が近代的に解釈し直された如来蔵哲学であったとしたのなら、その帰結である「場所」を、あらためて「コーラ」という述語を用いて定義し直すことは、これ以上はない、最も創造的な「概念」創出の試みであったはずだ。「如来蔵」とは、宇宙の「子宮」を意味していた。「コーラ」もまた、森羅万象あらゆるものに形(「形相」)を与え、物質の基盤(「質料」)を与え、「具体的な事物」(個)としていまここに生み落とす生成の「母胎」そのものであった。「如来蔵」は「コーラ」である。ありとあらゆる波の形を孕んだ「海」であり、ありとあらゆるものを胎児として孕み、産出する「母」である。形のなかの形であり、物質のなかの物質であり、無限のなかの無限である。(安藤礼二『縄文論』作品社/2022年/p.126-127)