展覧会『横山芙實展「野分奔る」』を鑑賞しての備忘録
アートスペース羅針盤にて、2022年12月12日~17日。
横幅3.9メートルの表題作《野分奔る》や横幅3.2メートルの《日々が凪いでいる》など大画面の作品を含め、いずれも土絵具と岩絵具による絵画全15点で構成される、横山芙實の個展。
冒頭に掲げられた《母子像》(652mm×530mm)は、胸の前に娘を抱きかかえる母親の胸像。限られた線と絞られたで立ち上がる静謐なイメージには、筆跡をはっきりと残すことで変化を与えられている。とりわけ丸い顔に杏仁形の目により仏画の趣がある。赤や茶の褐色で塗られた背景は、母子を取り巻く闇のようにも、母子から発される炎のようにも見える。母親は画面左側を向き、娘は画面右側を向いている。それぞれが違う未来を見据えているようにも、役割を分担して周囲を見張っているようにも見える。
《日々が凪いでいる》(970mm×3240mm)はM100号2枚を横長に繋ぎ、左側の画面にすっくと立つ黒い犬(甲斐犬)を抱く赤いワンピースの女性を描く。彼女と犬とは画面左側の同じ方向を向いている(本作品の左手に展示されている《母子像》の母子がそれぞれ左右反対方向を眺めているのと対照的)。右側の画面には犬の尻尾が食み出し、風に吹き流されたカーテンが掛っている。画面左隅とカーテンの下とには、風を表わす白い渦が描き込まれており、描かれていない右側の窓から風が入り込んでいること、すなわち右から風が吹いていることが強調される。ところが女性の髪は、恰も風を前(画面左側)から受けるように、右側に靡いている。何故か。おそらくは彼女が抱いている犬こそが風(の象徴)であるからである。疾駆する犬に風を見るのは容易く、かつ後述の《野分奔る》を見れば明らかである。彼女こそが犬とともに「凪いでいる」「日々」に風を起こしていたのだ。なおかつ犬は黒く、闇をも象徴する。風と闇と言えば、宮沢賢治の「祭の晩」に登場する山男が連想されよう。
〔引用者補記:宮沢賢治「祭の晩」において主人公の少年〕亮二は、祭の掛茶屋で銭を払わずに団子2串を食べた「山男」が、村の若い衆にいじめられているのに出くわします。男はあきらかに他所者の風情で、蓑のようなものを着た赤ら顔の大男でしたが、「早く銭を払へ」と言われても持ち金がなく、ひどく困ってどもりながら言い訳をしているのでした。亮二は直感的にこの大男が正直な人であると見抜き、ふところにあった最後の1枚の白銅銭を出して助けてやります。
亮二はしゃがんで、その男の草履をはいた大きな足の上に、だまって白銅を置きました。すると男はびっくりした様子で、じっと亮二の顔を見下してゐましたが、やがていきなり屈んでそれを取るやいなや、主人の前の台にぱちっと置いて、大きな声で叫びました。
「そら、銭を出すぞ。これで許してくれろ。薪を百把あとで返すぞ。栗を八斗あとで返すぞ。」云ふが早いか、いきなり若者やみんなをつき退けて、風のやうに外へ遁げ出してしまひました。
「山男だ、山男だ。」みんなは叫んで、がやがやあとを追はうとしましたが、もうどこへ行ったか、影もかたちも見えませんでした。
風がごうごうっと吹き出し、まっくろなひのきがゆれ、掛茶屋のすだれは飛び、あちこちのあかりは消えました。(「祭の晩」『全集 6』416-417頁)この部分の描写はとても重要です。困り果てていた山男が亮二に助けられる場面ですが、賢治はここでも風を登場させ、山男が疾風のように遁げ去り、そのあとにごうごうっと風が掛茶屋のあいだを吹きすぎて、灯を吹き消してゆく様子を印象的に描いています。山男の存在と風とがあきらかに同一化されている場面です。
山男ののこした言葉通り、その後、家に戻っていた亮二は外の戸口のところでどしんがらがらがらっ、という大きな音がするのを聴いてびっくりします。お爺さんと一緒にランプを持って夜闇に出て行くと、「ラムプは風のためにすぐに消えてしまひました」とあります。そして家の前の淡い月明かりの下、亮二はそこに太い薪が山のように投げ出され、たくさんの栗の実が届けられているのを発見するのです。闇のなかでもたらされる自然の「恩寵」、山からの「贈りもの」。亮二は、わずかなお金を出してあげただけなのに山男がここまでしてくれたことに、なんだか申し訳ないような、泣きたいような気分になり、山男の正直さにたいしてなにかしてあげたくなるのです。こうして物語の最後の部分がこう描かれます。「着物と団子だけぢゃつまらない。もっともっといゝものをやりたいな。山男が嬉しがって泣いてぐるぐるはねまはって、それからからだが天に飛んでしまう位いゝものをやりたいなあ。」
おぢいさんは消えたランプを取りあげて、
「うん、さういふいゝものあればなあ。さあ、うちへ入って豆をたべろ。そのうちに、おとうさんも隣りから帰るから。」と云ひながら、家の中にはひりました。
亮二はだまって青い斜めなお月さまをながめました。
風が山の方で、ごうっと鳴って居ります。(同書、419頁)全部で7頁ほどの、とても短い物語です。亮二と山男との直接の心情のやり取りもほとんどありません。にもかかわらず、この物語からは、少年と山男(=風)とがとても深い心の交わりを果たしたという感触が濃厚に漂ってきます。薪と栗の贈与にたいし、亮二は何ができたのでしょう? それは着物や団子のような贈り物を返すことではありません。おそらくは、亮二=賢治がこの物語を造形することこそが、山男が風となって天に飛んでゆくほど喜びながらだいちと空を駆け巡るための、返礼なのです。風からの物語を聞く賢治は、その恩寵に報いるために、たえず風に向けて物語を返しているのだともいえるでしょう。私たちにさし出されている賢治の「童話」とは、まさにそのような、風への贈与物でもあったのです。
さらに重要なことがあります。山男が祭から立ち去ったとき、あたりの掛茶屋の灯は風で吹き消されました。亮二とお爺さんが夜闇に持って出たランプも、すぐに風で消えてしまいました。そう、風が吹くと、縁日のあかりもランプの灯も消えて闇が出現するのです。賢治の描く風は、どうやら闇を生命のエネルギーとしているようなのです。すなわち、こう考えることができるでしょう。賢治にとって風は、啓蒙の光(=明るい世界)の対極にあるものなのです。近代の合理主義的な世界は、知の蒙昧(暗いこと)を啓く、すなわち「エンライトメント(啓蒙)」enlightment(=照らす、光をあてる)こそが知識の源泉であると考えました。しかし賢治はちがいます。むしろ、すべてを光に照らしてあからさまにすることではなく、光を消し、豊饒な闇を出現させて謎を謎のままに守ろうとする「風」こそが、知性の源泉にあると確信しているのです。「祭の晩」が、夜の風の神の物語として造形され、風が吹くとすべての灯が吹き消されることの真の理由は、まさにここにあります。夜の、闇のなかで維持される深い叡知の中で、少年と山男が、つまり少年と風が、もっとも原初的で豊かな心の交渉を果たしているのです。叡知とは、そうした「心の夜」に守られて花開くものなのです。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019年/p.101-104)
《日々が凪いでいる》が描くのは、「夜の、闇のなかで維持される深い叡知の中で、」女性と風であり闇である黒い犬とが、つまり女性と深い叡知とが、「もっとも原初的で豊かな心の交渉を果たしている」様であった。
《野分奔る》(1940mm×3880mm)は、前肢と後肢をそれぞれ揃えて伸ばして疾駆する黒い犬と、その背に跨がる裸の女性とを描いた作品。画面右下から左上へと躍り上がる黒い犬の体には、円弧を4つ重ねた白線で毛の模様が表わされている。顔を上げ、啓いた口から大きく長い舌を出している(左手に展示されている《日々が凪いでいる》の犬の吽形に対して阿形を表わしているとも言える)。女性は激しい犬の動きにロデオのようにバランスをとっている、犬をコントロールすることはなく、犬の赴くままに委ねている。女性の肌の黄土色と同じ背景には青が差されるとともに、画面全体に渡り涙形の白い水滴の連なりが配される。前述の《日々が凪いでいる》で明らかな通り、犬は風であり、本作で激しく駆ける犬の姿は暴風である。すなわち野分である。水すなわち雨を伴い、颱風を表現している。注目すべきは、犬(風)、女性、背景(自然環境)がすべて円弧の筆跡を残すように塗られていることである。換言すれば、それぞれに異なる存在を円弧の要素により統一的に把握しているのである。
あるいは、「私」と「あなた」という、本来まじわりえない二者の相互浸透をテーマにしつつ、自他の区別が消える融合的・集合的な「いのち」の存在感を描き出そうとした不思議な寓話が「マグノリアの木」でした。霧におおわれた山容の険しい細道を辿りながら、あたり1面にマグノリア(辛夷や泰山木)の白い花が咲いている美しい高原にやってきた諒安は、背後から彼に呼びかける不思議な声を聞きます。
「さうです、マグノリアの木は寂静印です。」
強いはっきりした声が諒安のうしろでしました。諒安は急いでふり向きました。子供らと同じなりをした丁度諒安と同じくらゐの人がまっすぐに立ってわらってゐました。
「あなたですか、さっきから霧の中やらでお歌いになった方は。」
「えゝ、私です。又あなたです。なぜなら私といふものもまたあなたが感じてゐるのですから。」(「マグノリアの木」『全集 6』140頁)この物語の舞台設定は、あきらかに仏教的にな絶体境か桃源郷のような趣を持っています。ですがそうした要素を外し、叙述することばの強度だけに注目したとき、この「えゝ、私です。又あなたです」というひとことの持つ表層的な論理矛盾と、@その違和感をあっさりと凌駕するほどの不思議な存在の相互浸透の気配に、私は驚かざるをえません。個別化された「人格」という観念が雲散霧消してゆき、そこに出現する自他一体となった集合的な感情と記憶の世界こそが、私たちの真の魂が住みつく領域ではないのかと思われてくるのです。同じような夢幻的な寂静世界を舞台とする「インドラの網」においても、秋風のなかで昏倒(=擬似的な「死」)することによって天の空間へと導かれた「私」は、インドラの網が体現する、万象をむすぶ集合的な関係性の世界へと合一していくのです。「私」が、すなわち「あなた」でもあるような、すべてが同帰しつつ交響する宇宙です。
ここで、メキシコの詩人オクタビオ・パスが、詩が実現しうる自他の融合をめぐって、詩論集『弓と竪琴』でこう書いていたことが思い出されます。詩的可能性は、われわれが決定的な飛躍をなした時、すなわち、われわれが実際にわれわれ自身から脱出し、〈他者〉の中に身を委ね、埋没した時にのみに実現される。その決定的飛躍の時、深淵でこれとあれの間に宙吊りになっている人間は、十全な存在であり、現存する充実である彼自身になることにおいて、電撃的な一瞬の間、これとあれ、過去の彼と未来の彼、生と死になる。今や人間は、彼がなりたいと願っていたすべてである――岩、女、鳥、他の男、そしてまた、他の存在である。(……)詩の声、〈他の声〉はわたしの声である。人間の存在はすでに、彼がなりたいと願うその他者を含んでいる。(オクタビオ・パス『弓と竪琴』牛島信明訳、岩波文庫、308-309頁)
詩人によるこのような至高の方法序説を受けとめたとき、賢治の「マグノリアの木」における「えゝ、私です。又あなたです」という不思議な一節が、同時に、「詩」という行為の秘法をめぐることばでもあったことが深く了解されてきます。「人間の存在はすでに、彼がなりたいと願うその他者を含んでいる」。こうパスは言いました。そこでは「私」と「あなた」だけでなく、互に浸透し合い、変容し合っているのです。個の存在や自我の意識は、もはやこの領域では存在することができないのです。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019年/p.375-377)
《野分奔る》の女性は、犬という「〈他者〉の中に身を委ね、」「決定的飛躍」をしている。「その決定的飛躍の時、深淵でこれとあれの間に宙吊りになっている人間は、十全な存在であり、現存する充実である彼自身になることにおいて、電撃的な一瞬の間、これとあれ、過去の彼と未来の彼、生と死になる」、すなわち彼女は「なりたいと願っていたすべてである」。