可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 岩崎奏波個展『プレイ パーク』

展覧会『岩崎奏波個展「プレイ パーク」』を鑑賞しての備忘録
リュウ・ギャラリーにて、2022年3月18日~23日。

絵画14点と小規模な立体作品群で構成される、岩崎奏波の個展。

《Dia》(410mm×318mm)には、緩やかにウェイヴする髪を持つ女性と、彼女より大きな獣とが向かい合って手を取り合う姿が、繁茂する植物に囲まれた中に表わされている。紺で統一された色彩により、舞台は薄明の世界にも、夜空にも見える。画面右半分に柱のように垂直に二本足で立つ獣は、太い首を折り曲げて、左側に跪く女性の顔を覆うように頭を下げている。恰も女性の頭を呑み込むかのように、獣と女性との頭部とは一体化している。そして、女性のワンピースには星のような模様が散らされ、獣の左腕ではその模様と似た光が青白く輝き、獣の首の周囲には放散される光のような表現がある。両者がともに持つ命の輝きであろう。ホーリズム全体論)が表現されているのである。

 宮沢賢治が考える「自然世界」もこの〔引用者補記:エルンスト・ヘッケルが打ち出した、人間中心主義を脱する潜勢力を有する、自然環境世界が有機的に相互連関するという〕「全体論」のヴィジョンによって彩られていました。そこで人間生命は、独立した中心に位置するのではなく、すべての生き物と環境世界との相互依存性、相互共振性のなかにやわらかく包摂されていたのです。そこでは、「個」という意識はけっして外的な環境を疎外・排斥することなく、より大きな全体性のなかでつつましく、揺らぎながら住まう(=棲まう)ことができるのでした。そもそも全体論においては、全体を部分(パーツ=個)に還元することはできず、逆に、ある系(システム)はの全体は、つねにそれを構成する部分の総和以上のものであると考えられたのです。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019年/p.358)

白い画面に緑色でブレーツェル(プレッツェル)のような線対称の輪を描いた抽象画のような作品《へびであり、ちょうである》(910mm×910mm)は、自他の区別が失われた状態を端的に示している。

 あるいは、「私」と「あなた」という、本来まじわりえない二者の相互浸透をテーマにしつつ、自他の区別が消える融合的・集合的な「いのち」の存在感を描き出そうとした不思議な寓話が「マグノリアの木」でした。霧におおわれた山谷の険しい細道を辿りながら、あたり一面にマグノリア辛夷や泰山木)の白い花が咲いている美しい高原にやってきた諒安は、背後から彼に呼びかける不思議な声を聞きます。

 「さうです、マグノリアの木は寂静印です。」
 強いはっきりした声が諒安のうしろでしました。諒安は急いでふり向きました。子供らと同じなりをした丁度諒安と同じくらゐの人がまっすぐに立ってわらってゐました。
 「あなたですか、さっきから霧の中やらでお歌ひになった方は。」
 「えゝ、私です。又あなたです。なぜなら私といふものも又あなたが感じてゐるのですから。」(「マグノリアの木」『全集 6』140頁)

 この物語の舞台設定は、あきらかに仏教的な絶対境か桃源郷のような趣を持っています。ですがそうした要素を外し、叙述することばの強度だけに注目したとき、この「えゝ、私です。又あなたです」というひとことの持つ表層的な論理矛盾と、その違和感をあっさり凌駕するほどの不思議な存在の相互浸透の気配に、私は驚かざるをえません。個別化された「人格」という観念が雲散霧消してゆき、そこに出現する自他一体となった集合的な感情と記憶の世界こそが、私たちの真のたましいが住みつく領域ではないのかと思われてくるのです。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019年/p.375-376)

《ムーンライト・パーク》(1940mm×1620mm)には、植物が鬱蒼と生い茂るジャングルを中心に、生命の誕生、食物連鎖などのモティーフが、水の循環のイメージによって接続され、人・獣・鳥・魚・植物が渾然と一体化する桃源郷のような世界が描き出されている。

 ここで、メキシコの詩人オクタビオ・パスが、詩が実現しうる自他の融合をめぐって、詩論集『弓と竪琴』でこう書いていたことが思い出されます。

 詩的可能性は、われわれが決定的な飛躍をなした時、すなわち、われわれが実際にわれわれ自身から脱出し、〈他者〉の中に身を委ね、埋没した時にのみ実現される。その決定的飛躍の時、深淵でこれとあれの間に宙吊りになっている人間は、十全な存在であり、現存する充実である彼自身になることにおいて、電撃的な一瞬の間、これとあれ、過去の彼と未来の彼、生と死になる。今や人間は、彼がなりたいと願っていたすべてである――岩、女、鳥、他の男、そしてまた、他の存在である。(……)詩の声、〈他の声〉はわたしの声である。人間の存在はすでに、彼がなりたいと願うその他者を含んでいる。(オクタビオ・パス『弓と竪琴』牛島信明訳、岩波文庫、308-309頁)

 詩人によるこのような至高の方法叙説を受けとめたとき、賢治の「マグノリアの木」における「えゝ、私です。又あなたです。」という不思議な一節が、同時に、「詩」という行為の秘法をめぐることばでもあったことが深く了解されてきます。「人間の存在はすでに、彼がなりたいと願うその他者を含んでいる」。こうパスは言いました。そこでは「私」と「あなた」だけでなく、「これ」と「あれ」、過去と未来、生と死もまた、集合的・交響的・回帰的な時空間のなかで、相互に浸透し合い、変容し合っているのです。個の存在や自我の意識は、もはやこの領域では存在することができないのです。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019年/p.375-377)

《きのう》(650mm×530mm)や立体作品においても月の表現が見られるが、《ムーンライト・パーク》の画面中央最上段に描かれた月は、上に凸の弓なりで表わされており、月蝕の表現となっている。それもまた自他の曖昧さの表現ために採用されたものと考えられる。

 オクタビオ・パスは晩年のあるインタヴューで、「詩人は目を閉じて書くのではない。なかば目を開いて、半影のなかで書くのだ」と言いました。詩人のいうかなる幻想も飛躍も、目を閉じた瞑想のなかでのイマージュと観念の遊戯として起こるのではありません。逆に、目を見開いて、そこに映る現実の像だけを捉えるのであれば、それもまた「詩」とは呼べないのです。詩の言語は、光でも影でもない、その中間領域、すなわち「半影」penumbraと呼ばれる領域で起こる、とパスは断言します。この「ペヌンブラ(半影)」とは、日蝕や月蝕のときに出現する半暗部のことを指していて、蝕によって減光された影の中で見えている微妙jに明るい部分をさす、、それじたい揺らぎと陰翳をかかえた言葉です。それは、明確な境界をもった「光」と「影」という二分法ではとらえられない、濃淡の間を指しており、すなわち「私」でも「あなた」でもなく、同時にそのどちらをもふくみこんだ、揺らぎながら自足する不思議な中間的薄明領域なのです。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019年/p.377-378)