可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 中島りか個展『⬜︎より外』

展覧会『中島りか「⬜︎より外」』を鑑賞しての備忘録
タリオンギャラリーにて、2023年5月27日~6月25日。

美術と宗教との類比をテーマに、《⬜︎(しかく)消し》と題されたインスタレーションなどで構成される、中島りかの個展。

インスタレーション《⬜︎消し》は、白いガードフェンスに囲まれた空間に配置された、フェルトに白地に緑十字の「安全旗」を縫い付けた《緑十字の聖壇布》、水を張った透明のガラスの壺に3つの石を入れた《⬜︎消しの壺》、坐って音声を聞く装置《椅子(ホワイトキューブ)》、打ち砕かれた高麗大理石製の壺の破片《壺割り》から構成される。
何より目を惹くのは、壁に架けられた《緑十字の聖壇布》である。緑十字の描かれた白い旗が、それよりも大きなチャコールグレーのフェルトの布に取り付けられ、緑十字の上から赤い刺繍糸で十字が縫われている。緑十字は、キリスト教に由来する赤十字をもとに考案された、日本独自の安全を訴える標章であり、「西洋由来の現代美術が日本で独自に発展してきたありよう」(長尾優希「中島りか個展『□より外』に寄せて」)を象徴するらしい。
ところで、フェルトと言えば、ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys)である。フェルトに緑十字と赤十字とを組み合わせた《緑十字の聖壇布》との関係では、とりわけ、フェルトで梱包したピアノに赤十字を縫い付けた《グランドピアノのための等質浸潤(Infiltration Homogen für Konzertflügel)》(1966)が連想される。フェルトで梱包されたピアノは、演奏できない状態を表現する(奪われた音楽への想像を促し、あるいは赤十字が演奏不能状態からの回復を訴える)。それに対して《緑十字の聖壇布》は壁面に架けられているだけであり、楽器を梱包してはいない。なぜなら、「楽器」は剥き出しにされているからである。「楽器」とは、《椅子(ホワイトキューブ)》である。振動スピーカーを内蔵した白い立方体の箱の上面にはフェルトが敷かれ、来場者は坐って音声――打撃音による音楽――を聞くことができるのである。そこではたと気が付く。《□(しかく)消し》とは、「視覚消し」であったのだ。
では、なぜ作家は「視覚消し」を提示するのであろうか。作品が視覚としてのみ流通することに対するアンチテーゼではなかろうか。美術作品が多分に視覚芸術であることは否定できないが、それは画像に還元できるものではない。視覚を消去することで、作品の持つ何か――例えば、アウラのようなもの――が「見え」てくる。作家はその可能性に賭け、探究しているのではないか。
□(しかく)はまた、四角であり、箱である(長尾優希「中島りか個展『□より外』に寄せて」は、緑十字が「立方体を切り広げたかたちである」と示唆する)。白いガードフェンス、ギャラリーの床の穴(床下点検口か? ギャラリーにもともと備わっているもの。作家は穴を開けた上に透明の板を敷いて《⬜︎消しの壺》を配する)、そしてギャラリーというホワイトキューブ(展示空間)、ギャラリーの入居するビル。□=四角=箱が入れ籠に存在する。作品を包むのがギャラリー(美術館)=キューブであり、ギャラリーは聖遺物を納める聖堂に匹敵する。否、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)の作品(とされてきた?)《泉(Fontaine)》が明らかにするように、ギャラリー=聖堂=□が聖遺物=美術品にするのである。
ところで、絵画とは画布に絵具を塗ったものである。広く捉えれば、美術とは何かをパッケージにして差し出す行為と言えるのである。□とは、梱包であり、美術である。美術は、作家からの贈り物なのだ。□=パッケージから外に取り出すのは、贈答を受けた鑑賞者に委ねられている。

なお、本展では、割れた白いカラーコーンの中から聖母の石膏像が除く《あらわれのマリア》、森の中の白いマリア像を撮影した写真《マリアの身体 1》(緑十字はその象徴化と看做され得る)など、潜伏キリシタンが重要なモティーフとなっている。霊感商法の壺との対比で、パッケージではなくその中味こそ重要だと訴えられている。