可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 岡﨑ひなた個展『空蝉ミ種子万里ヲ見タ。』

展覧会『第25回写真「1_WALL」グランプリ受賞者個展 岡﨑ひなた展「空蝉ミ種子万里ヲ見タ。」』を鑑賞しての備忘録
ガーディアン・ガーデンにて、2023年5月23日~6月24日。

第25回写真「1_WALL」グランプリ受賞者・岡﨑ひなたによる個展。作家の生まれ育った和歌山県の小村で撮影された写真35点で構成。

冒頭は、朝未き、高台から湾に接する集落を見下ろす写真。空と山と海と、それらに挟まれた人々の住まいという、作品の舞台である作家の故郷を俯瞰する。空と大地、海と陸、夜と朝。そしてそれぞれの対(つい)の間(はざま)。それらを見晴るかす高台には墓地がある。作家は、死者の立場に身を置いて、生者の世界を見晴るかす。作家もまた、境界に立つことが示される。

死んだ獣の目が虚ろに開かれている写真。目の周りを密集した毛が渦巻く。目を中心に広がる渦とは、颱風(≒低気圧)である。
低圧部に空気が流れ込んで上昇気流が生じる。上空で冷やされた空気には支えきれない水が雨となって落ちてくる。
川縁に火が焚かれ、人々が集う写真。人々は傘を差している。笠は依代であった。大きな雨粒は依代に向かう魂のようである。一旦天に上った魂が、戻ってくる。

石垣の上に立ち、地面に寝そべる白い豚を眺める少女。白いパーカーのポケットに両手を突っ込んでいる彼女は、伏して肢を隠した豚になる。
あるいは、銀杏の大木を見上げる女性。銀杏は女性を見下ろす。女性は銀杏になり、銀杏は女性になる。
もやもやとした朱がかった雲が覆う空を背に、漁港で大きな蟹を顔の前に構える漁師。人は蟹に、蟹は人になる。ドゥルーズが生成変化を論じる際、引き合いに出されたロバート・デ・ニーロが蟹になるエピソードが想起される。

(略)動物や花や岩になることは、実体レベルでの「モル状の種をとりかえる」のではなく、「分子状」の動物や花や岩に構成を変化させることなのだ。「放出された微粒子間の運動と静止、速さと遅さの関係である」以上、それは微分の次元、もしくは加速度の次元に身を置いて、変化させることだと言ってもよいだろう。
 だが、ドゥルーズは、それには「なんらかの手段と要素」や、「十分な熱意と必然性と構成」が必要であると言う。デ・ニーロの場合は、それは俳優の卓越した技術であることだろう。では、中国人はどうだろうか。ドゥルーズはすでに、壁を通り抜けることのできる中国人についても、そうした「技術=芸術」を認めていた。すなわち、それは「線」の「技術=芸術」である。動物になり、知覚しえぬものになるという、他なるものになることは線によってなのだ。ここで問われているのは、次のような線である。

フランソワ・チャンが明らかにしたところによると、文人画家は相似を追求するのではないし、「幾何学的比例配分」を計算しているわけではない。文人画家は自然の本質をなす線や運動だけをとりあげて、これを抽出し、ただひたすら「描線」を延長し、重ね合わせていくものだ。ありふれたものになり、〈みんな〉を生成変化に変えるなら、世界の様相を呈し、1個の世界、複数の世界を作ることになるというのは、こうした意味においてである。つまり近傍域を見出し、識別不可能性のゾーンを見出そうというのだ。抽象機械としてのコスモス、そしてこれを実現する具体的なアレンジメントとしての個々の世界、他の線につながって延長され、他の線と結び合うような、1つ、あるいは複数の抽象線へと自分を切り詰めていき、ついには無媒介に、直接的に1つの世界を産み出すこと。そこでは世界そのものが生成変化を起こし、私たちは〈みんな〉になる。(同〔引用者註:ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ千のプラトー』中〕、二五一頁)

 線とはつまり、微分の次元を走る、抽象線である。これは、節約するものとしての抽象線であって、まさに「自分を切り詰める」ものである。そして、それはabstractiōの原義を響かせて、引き出すとともに、盗み取ることなのだ。わたしたちは、この抽象線になることで、ようやく、動物にもなり、花にも岩にもなる。ここに来てわかることは、ドゥルーズは、線の「技術=芸術」を有する者を「中国人」と呼んでいたのである。
 この引用箇所にはもう1つ重要なことが述べられている。つまり、他なるものへの生成変化は、単独の現象ではない、ということだ。ドゥルーズは、「わたし」が他なるものにに化すことは、同時に、その他なるものがさらに別のものに化すことだと強調していた。

画家や音楽家は動物を模倣するのではない。画家や音楽家が動物に〈なる〉と同時に、動物のほうも、大自然との協調がきわまったところで、自分がなりたいものに〈なる〉のだ。生成変化は常に2つを遂にしておこなわれるということ、そして〈なる〉対象も〈なる〉当人と同様に生成変化をとげるということ。これこそ、本質的に流動的で、決して平衡に達することのないブロックをなす要因なのである。(同〔引用者註:ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ千のプラトー』中〕、三五〇頁)

「生成変化」において、1つの近傍(近さ)が変化すると、他の近傍(近さ)もまた独立に変化する。そして、その結果、さきほどの引用にあったように、この世界そのものが深く変容するのである。「そこでは世界そのものが生成変化を起こし、私たちは〈みんな〉になる」。(中島隆博荘子の哲学』講談社講談社学術文庫〕/2022/p.206-209)

砂浜や川辺、壁やフェンス、毛皮や羽や皮膚。写真に現れるのは境界である。また、水(川、海、雨、雲)、火や煙、そして獣や人。写真――とりわけ、川縁で解体された獣を捕えた作品が象徴的である――に現れるのは境界を行き来する存在である。それらが横一線に等価に並べられることで、「わたしたち」は、「抽象線にな」り、「動物にもなり、花にも岩にもなる」。すなわち、「そこでは世界そのものが生成変化を起こし、私たちは〈みんな〉になる」。