可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 長田奈緒個展『紙を持つ手は紙』

展覧会『長田奈緒「紙を持つ手は紙」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリーそうめい堂にて、2023年4月15日~5月6日。

浮世絵の図像から紙を持つ手を抽出し、様々な紙に箔押しした作品「紙を持つ手」シリーズで構成される、長田奈緒の個展。

紙面の一部に、浮世絵のイメージから借用された、紙とそれを持つ手だけが箔押しで表わされている。例えば、歌麿《婦女人相十品 手紙を読む女》の手紙を読む女性が、顔の前に両手掲げている両端が捲かれた手紙、英山《当世新内美人仇合 仇比恋浮橋》の腰掛けた女性が読んでいる広げられ後半が垂れている手紙、国芳《見立桃灯蔵 大序》の女性が右手に持って子に見せている紙で折った兜といった具合。会場で配布されるプリントには、元となった浮世絵とそれに対応する反対側に作品に採用された紙を手にした部分とが示されている。イメージが表わされる紙は色紙やボール紙、クッションペーパーやファストフードの紙ナプキンまで質や色がいずれも異なっている。
「紙を持つ手は紙(かみをもつてはかみ)」が表現するのは、イメージが「変わっても紙を見(かわつてもかみをみ)」ていることである。すなわち、多色刷りの浮世絵版画において手(肌)と紙の部分は刷り残され、インクが載せられない紙の地を見ているのである。

浮世絵に描かれている人物の肌についても、その制限の中で生まれた表現が認められます。浮世絵の中の人物の肌は、版数を減らす為か紙の地の色をそのまま使用するという手法がとられました。当時の動機としては、工程の削減という意味合いであったその表現ですが、時代を経てかえって独創的な表現と捉えられるようになりました。(配布資料「ギャラリー解説」より)

作家の作品は、恰も刑事ドラマでチョークの線が遺体の位置を示すように、箔押しの輪郭線によって紙と手を見せるようだが、実は支持体である紙を見せるのが狙いであり、そのために「絵画」の支持体としては特異な梱包材や紙ナプキンまで採用したのである。
それではなぜ支持体である紙を見せるのか。それは、殺人事件現場のチョークの線が、遺体ではなく、それが存在した位置を示すのみであるように、鑑賞者が実は何も見ていないこと――作家が描かなかった部分を見ていること――に気付かせるためである。何も見ていないにも拘らず、鑑賞者が作品に宙空に浮いた紙と手とを認識するなら、鑑賞者が画面=紙を空間として、その中に入り込む体験をしているのに等しいと言えまいか。画面を静的にではなく動的に、巨視的にではなく微視的に捉える中で、紙(支持体)は「紙を持つ手」に変化していることになる。すなわち「わたし」が変化することで、世界が変化するのである。

壁を通り抜けること。たぶん中国人ならできる。しかしどんなふうに。動物になること、花または岩になること、さらにまた、不思議な知覚しえぬものになること、愛することと一体の硬質になることによって。たえず動かずにその場で試みようと、これは速度の問題である。……(中略)……もちろん、ここでは、芸術の、それも最も高度な芸術のあらゆる源泉を活用しなければならない。あらゆるエクリチュールの線、あらゆる絵画性の線、あらゆる音楽性の線が必要になるだろう……。なぜなら人は、エクリチュールによって動物になり、色彩によって知覚しえぬものになり、音楽によって硬質になり思い出をなくし、同時に動物となり、知覚しえうものになる。つまり恋する者に。(同〔引用者註:ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ千のプラトー』中〕、五二頁)

なぜ中国人であれば、壁を通り抜けることができるのか。それは、中国人が他なるものになりうるからである。中国人は、動物になり、花や岩になり、さらには知覚しえぬものになる。そうなることで、中国人は、キリストでさえ通り抜けることのできなかった壁を通り抜けることができる。こうしてドゥルーズは、自らの生成変化の思想の具体的な姿を中国人に託していく。
 では、ドゥルーズにとって、他なるものへの生成変化するとはいかなる事態であったのだろうか。それは、他なるものを模倣することではない。他なるものになることは、自分自身でありながら、しかしその構成を分子のレベルから変えることなのだ。

俳優のデ・ニーロはある映画の一場面でカニの「ような」歩き方をしてみせる。しかし、当人の説明によると、これはカニの模倣ではない。映像と、あるいは映像の速度と、カニにかかわる〈何か〉を組み合わせようというのである。そしてわれわれにとって重要な点はここにある。つまり人間が動物に〈なる〉のは、なんらかの手段と要素を使って、動物の微粒子に特有の運動と静止の関係に組み込まれるような微小粒子を放出する場合にかぎられる、あるいは、これも結局は同じことになるが、動物的分子の近傍域に組み込まれるような微小粒子を放出する場合にかぎられるということだ。動物に〈なる〉ためには自分自身も分子になるしかない。いかいにも犬らしく吠えるモル状の犬になるのではない。そうではなく、犬のように吠えながら、もし十分な熱意と必然性と構成があれば、そのときは分子状の犬を放出することができるのだ。人間は、自分の属するモル状の種をとりかえるようにして狼になるのではないし、吸血鬼になるのでもない。そうではなく、吸血鬼や狼人間は人間の生成変化である。つまり複数の分子を組み合わせた場合、その分子のあいだにあらわれる近傍の状態であり、放出された微粒子間の運動と静止、速さと遅さの関係であるう。……(中略)……
 そう、あらゆる生成変化は分子状なのだ。われわれは動物や花や岩になるが、こういった事象は分子状の集合体であり、〈此性〉であって、われわれ人間の外部で認識され、経験や知識や習慣を動員してはじめてそれと知れるようなモル状の主体や客体ではないのだ。(同〔引用者註:ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ千のプラトー』中〕、二三八―二四〇頁)

ここれではさきほど述べた『荘子』の想像力〔引用者註:物化を、形態異状ではなく、運動の中で定められた構成を自由に変更することと捉える考え方〕がよりわかりやすい表現で示されている。動物や花や岩になることは、実体レベルでの「モル状の種をとりかえる」のではなく「分子状」の動物や花や岩に構成を変化させることなのだ。「放出された微粒子感の運動と静止、速さと遅さの関係である」以上、それは微分の次元、あもしくは加速度の次元に身を置いて、変化させることだと言ってもよいだろう。
 だが、ドゥルーズは、それには「なんらかの手段と要素」や、「十分な熱意と必然性と構成」が必要であると言う。デ・ニーロの場合は、それは俳優の卓越した技術であることだろう。では、中国人はどうだろうか。ドゥルーズはすでに、壁を通り抜けることのできる中国人についても、そうした「技術=芸術」を認めていた。すなわち、、それは「線」の「技術=芸術」である。動物になり、知覚しえぬものになるという、他なるものになることは線によってなのだ。ここで問われているのは、次のような線である。

フランソワ・チャンが明らかにしたところによると、文人画家は相似を追求するのではないし、「幾何学的比例配分」を計算しているわけでもない。文人画家は自然の本質をなす線や運動だけをとりあげて、これを抽出し、ただひたすら「描線」を延長し、重ね合わせていくのだ。ありふれたものになり、〈みんな〉を生成変化に変えるなら、世界の様相を呈し、一個の世界、複数の世界を作ることになるというのは、こうした意味においてである。つまり近傍域を見出し、識別不可能性のゾーンを見出そうというのだ。抽象機械としてのコスモス、そしてこれを実現する具体的なアレンジメントしての個々の世界。他の線につながって延長され、他の線と結び合うような、一つ、あるいは複数の抽象線へと自分を切り詰めていき、ついには無媒介に、直線的に一つの世界を産み出すこと。そこでは世界そのものが生成変化を起こし、私たちは〈みんな〉になる。(同〔引用者註:ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ千のプラトー』中〕、二五一頁)

線とはつまり、微分の次元を走る、抽象線である。これは、節約するものとしての抽象線であって、まさに「自分を切り詰める」ものである。そして、これはabstractiōの原義を響かせて、引き出すとともに、盗み取ることなのだ。わたしたちは、この抽象線になることで、ようやく、動物にもなり、花にも岩にもなる。ここに来てわかることは、ドゥルーズは、線の「技術=芸術」を有する者を「中国人」と呼んでいたのである。
 この引用箇所にはもう一つ重要なことが述べられている。つまり、他なるものへの生成変化は、単独の現象ではない、ということだ。ドゥルーズは、「わたし」が他なるものに化すことは、同時に、どの他なるものがさらに別のものに化すことだと強調していた。

画家や音楽家は動物を模倣するのではない。画家や音楽家が動物に〈なる〉と同時に、動物のほうも、大自然との協調がきわまったところで、自分がなりたいものに〈なる〉のだ。生成変化は常に二つを対にしておこなわれるということ、そして〈なる〉対象も〈なる〉当人と同様に生成変化をとげるということ。これこそ、本質的に流動的で、決して平衡に達することのないブロックをなす要因なのである。(同〔引用者註:ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ千のプラトー』中〕、三五〇頁)

「生成変化」において、一つの近傍(近さ)が変化すると、他の近傍(近さ)もまた独立に変化する。そして、その結果、さきほどの引用にあったように、この世界そのものが深く変容するのである。「そこでは世界そのものが生成変化を起こし、私たちは〈みんな〉になる」。
 こうしたドゥルーズ的な「生成変化」は、荘子の「物化」と見事に照応している。どちらもが、他なるものへの変化によって、この世界の根底的な変容を究極的にイメージしているのである。(中島隆博荘子の哲学』講談社講談社学術文庫〕/2022年/p.204-209)

ところで、「紙を持つ手」シリーズは、恰も古代ギリシャの女神の像が、その腕が失われた姿で伝わっているのと対となるように、手とそれが持つ紙だけが残されている。髪を持つ手を提喩として人類を表わしている。

 基本的には菜食性(草食性)で、森のなかに住んでいた霊長類のなかで、人類だけが草原に出て、本格的な肉食を開始したのである。それとともに自由となった「手」で医石を割り、原初の道具、原初の「石器」を創り出したのだ。意図的にいしを割る、「石器」を作り出すということは、そこに時間(未来)という「意識」が存在しはじめたことを意味する。人間のなかに内的な世界が生まれたのである。(安藤礼二『縄文論』作品者/2022/p.170)

紙は道具の、手は紙(=道具)の象徴である。そして、道具の創出が時間を生んだのなら、やはり「紙を持つ手」とは変化(=時間)の象徴と言える。やはり作品の狙いは、「わたし」が変化することで世界が変化することにこそ置かれている。