可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 木村繁之個展『木彫 水彩』

展覧会『木村繁之「木彫 水彩」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY TSUBAKI/GT2にて、2023年5月13日~27日。

心象風景を仮託した、木彫の人物(12点)と水彩の抽象画(8点)とで構成される、木村繁之の個展。

 どうやら人間の想像力は、或る物体が一定の大きさのままに留まっていることに、いっかな満足しないもののようである。想像力はつねに、対象の急激な拡大と収縮を可能ならしめるところの、不思議の国のアリスが飲んだ水薬のようなものを求めているかのごとくである。
 海岸で拾った貝殻を指先でもてあそびながら、「形と大きさとのあいだに存する必然的な依存関係なるものを、私は決して認めない」とヴァレリーは言う、「私は、より大きいものとして、あるいはより小さいものとして、考え得ないような形というものを考えることができない。或る1つの形象を考えれば、私の精神はどうしても、それと相似の大小幾多の形象を考えてしまうような具合なのである」(『人と貝殻』)と。
 だからこそ、古代の宝石彫刻師や中世の細密画家たちは、その中から馬や山羊や象などといった動物が飛び出してくるような、大きな貝殻を空想せずにはいられなかったのであろう。貝殻は貝殻であると同時に、この場合、どうしても家でなければならなかったのである。ハムレットの胡桃〔引用者註:「たとえ胡桃の殻のなかに閉じこめられていようとも、無限の天地を領する王者のつもりになれる」〕と同じなのだ。(澁澤龍彦「胡桃の中の世界」澁澤龍彦『新装新版 胡桃の中の世界』河出書房新社河出文庫〕/2007/p.279-280)

メイン・ヴィジュアルに採用されている《ほとり》(100mm×132mm×130mm)は、縁が僅かに立ち上がった丸い平皿のような縁がやや立ち上がった台座の中に人物が佇む木彫作品。「丸平皿」には細い線が小波のように刻み、白とともにわずかに青の絵具が挿すことで水辺を表現している。目を瞑り真っ直ぐ立つ人物の身体は水を浴びたように淡い青を呈しているのみならず、真下に降ろされた腕は長く伸びて水の流れを感じさせ、なおかつ膝から下を表現しないことで水の中に浸っている状況が示される。水辺に佇立する木とは、「木彫 水彩」と題された展覧会を象徴するに相応しい作品である。「丸平皿」の細やかな縁は池水ないし湖水といった閉鎖的な環境を想起させる一方、人物が目を瞑りやや顎を上げている姿は遠方への広がりを感じさせる。「想像力はつねに、対象の急激な拡大と収縮を可能ならしめるところの、不思議の国のアリスが飲んだ水薬のようなものを求めている」のだ。

 迷宮のテーマと螺旋のテーマとは、美学的にも心理学的にも、必ずしも直接には結びつかないと思うが、ケレーニイの『迷宮の研究』は、この2つが密接な関連性を有するものであることを証明している。
 「宗教的慣習や原始的芸術として現れた場合には、迷宮には多かれ少なかれ螺旋的な形態を認めることができる。螺旋は単なる線であろうと、あるいは複雑な曲折模様であろうと、私たちがそれを避けがたい1つの道、1つの通路として考えるならば、たちまちにして1個の迷宮となる。
 右の文章の例を、ケレーニイはバビロニアからクレタ島、さらに北ヨーロッパの文明にまで広く求めているが、私はここに一例だけを引用するにとどめよう。それは、予言のために用いられた犠牲獣の、螺旋状の内臓の描写を示しているバビロニアの粘土板である。こうした死の世界への潜入は、古代にあっては、つねに冥府への降下と見なされていたので、螺旋は冥府の建築そのものを表現していると考えてよいのだ。冥府を表象する「内臓の宮殿」という言葉さえあったそうである。バベルの塔が、この「内臓の宮殿」の等価物ではなかったろうか、とケレーニイは匂わせている。
 ペルセポネーの神話や、あるいはギリシャ以外の文明の似たような神話もまた、興味深い例を私たちに提供してくれる。若い娘の冥府降下が舞踊化されている地方では、私たちはほとんど必ず螺旋の形にぶつかるのだ。螺旋は、中心の井戸をめぐる9つの舞踊の輪によって表現される。
(略)
 螺旋の道によって象徴された深淵への降下は、おそらく中心の探究であろう。それは自己の探求、あるいは宇宙感覚の探求と言い変えても差支えあるまい。この探求は、ほとんどつねに死を含み、この死は、ほとんどつねに再生を伴うのである。だから螺旋は、死と再生を実現しながら、たえず更新される人間精神の活力の表現である、とも言えるのだ。(澁澤龍彦「螺旋について」澁澤龍彦『新装新版 胡桃の中の世界』河出書房新社河出文庫〕/2007/p.74-78)

《降りてくる空》(328mm×130mm×130mm)は、無を瞑り顔を持ち上げる人物の木彫。腕の表現は省かれ、脚も貫頭衣のような表現の中に溶け込んでいる。首や腰などを捻り、螺旋状の身体を有する。捻りと、腰の辺りの出っ張りなどの歪な形とが、鑑賞者の眺める位置によって彫像のイメージに大きな変化を与える。自然、鑑賞者に彫像の周囲を動いて見ることを促す。そのとき、彫像は映像となる。平たい変形の台座に心棒で取り付けられることで生まれる浮遊感は、彫像の螺旋の形状と相俟って、上昇運動を生じさせる。目を瞑り上を向いているのは、空気の抵抗を感じているからだ。天に向かっての上昇が「自己の探求、あるいは宇宙感覚の探求」でなくて何であろう。天に向かい上昇するとは即ち「空が降りてくる」のに等しい。それがタイトルの所以である。《降りてくる空》は、「死と再生を実現しながら、たえず更新される人間精神の活力の表現」なのだ。