展覧会 蝸牛あや個展『夜間飛行』
メグミオギタギャラリーにて、2023年9月22日~10月7日。
木の葉、貝殻、石、羽根などをモティーフとした刺繍作品で構成される、蝸牛あやの個展。
色取り取りの糸を絹布に縫い付けていく1つ1つのステッチは、木の葉、貝殻、石、羽根などの形を語る声ないし言葉となる。イメージを声ないし言葉で置き換えるとき、比喩に頼らざるを得なくなる。その結果、イメージを表わすステッチは、モティーフから跳躍していく。作家が、木の葉に錬金術師を、貝殻に王国を、石に宇宙を見ることになる。
巻貝をモティーフとした「王国」シリーズは3点出展されている。そのうち1点の《王国》(275mm×220mm×20mm)は茶の絹布に刺繍を施している。貝殻の上部はピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel)の《バベルの塔(De Toren van Babel)》のような螺旋を描く階層で構成される城のような形をしており、そこにタイトル「王国」の由来がある。貝殻の中央上部には大きな穴があり、その辺りから下は、右側の光が当たる側は鳥の羽状に、左側の蔭の部分は獣の毛並みのようにそれぞれ表わされる。中央に穿たれた穴は耳の形に見える。貝殻の穴に耳を当てると聞こえてくる波の音を連想させる。貝の奏でる音は、海に打ち寄せる波ではないが、物理現象としては波そのものである。同様に、刺繍で表わされた貝は王国(realm)ではないが、作者にとっては現実の(real)王国である。なぜなら巻貝の姿を一縫いずつ絹布に表わしていく際に、実際に城壁の姿を見るからだろう。貝殻の穴が耳の形をとるのも、巻貝の声を聞いてしまうからかもしれない。そして、その穴は、刺繍糸で表現するとき、空虚ではなく、闇でもない。刺繍糸が重なり、鈍く光るのである。無の中に有を、あるいは極小の中に極大が見えて来る。
だから、石に宇宙を見ることになる。2点ある《星々》(各220mm×275mm×20mm)のうちの1点は、黒い絹布に、山吹、橙、青、紺、などで二両引き・三両引き、四角形、アステリスクなどの微細な形を連ねて石の形を作っている。「石」の周囲にステッチが放射するように分散されることで、石の表面の模様を追ううちに、石の来歴の時間に思いを馳せ、その深遠さに対する気付きが、作家に石ころから宇宙への飛躍を可能にさせている。
ところで、石ころを木彫とした橋本平八は『純粋彫刻論』において「仙とは動なり。動とは静の終りなり。即ち静中動なり。霊は水の霊なるあり。仙は山の仙あり。水は常に流動す。この性格ある水も深きに至って静とも観る。水清くして深さ計り知らざれば気の遠くなるを覚えしむ。霊なる所以か。山は静止して動かざるが性格なり。この山も深くわけ入りて人跡未踏の境に入れば精神自ら清浄に山も動ずるかと覚え樹木燃ゆるが如く心を引かるるものなり。仙なるが故か。」と記している(黒田大佑『「不在の彫刻史」付録:「石に就いてはいかに作られたか。」』黒田大佑/2017/p.40参照)。
まず、「水は常に流動す。この性格ある水も深きに至って静とも観る。」というのは、水は常に動いているが、深いところでは止まっているように感じるという意味である。また「山は静止して動かざるが性格なり。この山も深くわけ入りて人跡未踏の境に入れば精神自ら清浄に山も動ずるかと覚え樹木燃ゆるが如く心を引かるるものなり。」は山は静止しているように思われるが奥深く分け入っていくと木々が生い茂り動いているかのように魅力的なものに感じるというような意味だろう。そして「動とは静の終りなり。即ち静中動なり。」というのは平八の挙げている例からすれば、一見静止していると思われるものもその実は動いているという解釈が出来る。つまりこの記述は、静止している様にみえて実際には動いているものの、その動じている力そのものが「仙」であり「動」であると述べていると考えられる。(黒田大佑『「不在の彫刻史」付録:「石に就いてはいかに作られたか。」』黒田大佑/2017/p.41)。
橋本平八の「水清くして深さ計り知らざれば気の遠くなる」感覚を、ひいては「静止している様にみえて実際には」「動じている力そのもの」である「『仙』であり『動』」を作家もまた捉えていることは疑いない。石ころに水の流れを見た《泉》(136mm×170mm×20mm)がその証左である。