可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 木村桃子個展『袋を積む』

展覧会『木村桃子展「袋を積む」』を鑑賞しての備忘録
galerieHにて、2023年6月18日~7月1日。

人間と時間との関わりが可視化される「積む」をテーマとした木彫作品5点で構成される、木村桃子の個展。

表題作の《袋を積む》(260mm×320mm)は、鈍角の頂点から右側の斜線が長い不等辺三角形状に積み重なる(中に何かがあり膨らんでいる)袋のドローイングと、そのドローイングの積み重なる袋のように盛り上がる部位で構成される寝ている人物らしき板状の木彫作品とを額装して壁面に掛けた作品。
《袋を積む》に基づいたと思しき《立ち上がる身》は、中に何かを詰めて口を縛った黒いビニール袋が8つほど積まれ、そこに横から見た人体の形を刳り抜いた板を立て掛けたインスタレーション。《袋を積む》で完全に寝ていた(横倒しになっていた)人物が、《立ち上がる身》では人体を表わす板が20度ほど置き上がっている点にわずかに「立ち上がる」姿が認められるが、パリでストライキのために収集されないゴミ袋が散乱する光景に遭遇した経験から着想されたとのことで、主張を訴えるために立ち上がるという意味合いが籠められているのかもしれない(ストライキの参加者が増え、期間が延びれば、積み重なるゴミ袋は増え、人物は垂直に立つことになるだろうか)。
《袋を積む》の袋が平面(ドローイング)であるのに対し、《立ち上がる身》のゴミ袋は立体である。また、《袋を積む》の人物像が実体として作られているのに対し、《立ち上がる身》の人物は板を刳り抜いたシルエットで表わされている。前者と、それに基づいて構想された後者とで制作手法が転換あるいは反転しているのは何故か。また、《立ち上がる身》については、ゴミ袋も人体も木彫で提示することもあり得た筈である。なぜ木彫を採用せずビニール袋を積み重ねるインスタレーションの形が採用されたのだろうか。

 モニュメントの語源は記憶すること、記憶させることに関わります。中身ではない。つまり、モニュメントという言葉の使用とは、何を記憶するのか、どういったメッセージを込めるのかということが、いったん宙吊りにされるということなんです。内容よりも記憶形式が優先。これが近代的な仕組みとして現れてきて、いま私たちが見ているような一連のモニュメントが生まれている。用語法の歴史としては、彫刻、スカルプチャーにも似たようなところがあって、じつはモニュメントとまったくパラレルです。もともとスカルプチャーは、ヨーロッパではスタチューであったり、あるいはフィギュアでした。具体的にそこで何が表わされているのかをちゃんと名指していた。それが、ある頃から、だいたい18世紀ごろ、美術史がかたちづくられる頃に、スカルプチャー、彫られたものという言葉が有力になっていった。
 要は、ミケランジェロや誰か彫刻家がつくったモニュメントなるものが伝統的にあり、そこから脱してロダンが近代彫刻をつくり上げたというのは、言い回しというか、話の構成としては無理であるだろうということです。基本的には、近代の装置としてモニュメントはある。(白川昌生・金井直・小田原のどか「鼎談『彫刻の問題』、その射程」小田原のどか編『彫刻1』トポフィル/2018/p.272-273〔金井直発言〕)

彫刻には近代の装置=モニュメントとしての性格がある。その彫刻のモニュメント性について作家は再考しようとしているのではないか。その切り口となるのが、彫刻家=芸術家の作品としての彫刻という観点である。その観点は、パリのストライキによって積み重ねられたゴミ袋の山に、彫刻家=芸術家が存在しないモニュメントを目撃したことによって生じたと推察される。
作家不在のモニュメントの参照項となるのがマウンドである。

 積み重ねたものの上にさらに乗せ、勝手に積もるに任せて、長期間にわたってものを積みあげていくと、水平面では円いかたちをした、垂直面では円錐形の、あるいはベルのような形をしたマウンド(小山)が徐々に形づくられていくことになる。マウンドが形成されるプロセスは、小規模には砂時計の砂で観察することができる。大規模には、火山の円錐丘において目にすることができる。モグラ塚からアリの巣まで、マウンドは自然において、もっともありふれた形態である。それは、しばしば人間の活動の結果でもある。例えば、貝塚や石塚、砂の城や対比、ゴミの山やぼた山などを思い描いてみてほしい。(ティム・インゴルド『メイキング 人類学・考古学・芸術・建築』左右社/2017/p.161)

マウンドはモニュメントと山との中間的性格を有する。

 未来永劫残されるようにデザインされ、建設されたモニュメント(記念建造物)が、結果として日々廃れてて〔引用者註:原文ママ〕いく一方で、円形のマウンドは静かに控えめに積層をつづけていく。それは持続するのだ。このことが、わたしたちを二つ目の想定へと導く。単刀直入にモニュメントがどれくらいの古さなのかと問うことに。わたしたちは、建築という完成された作品を創造するために、それまで概念としてしか存在していなかったフォルム(形式)が、不定形だった素材を集めて組み立てることで作品として統一された瞬間から〔モニュメントは〕存在している、と答えるだろう。その瞬間を決定づけるためには、多少の考古学的な追跡調査が必要とされるかもしれない。だが、そのような瞬間が存在したということに疑いの余地はない。それでは、同じ問いを「山」に関して発したらどうなるか。建前として、どうやって日付を確定しうるのか。というのは、山はつくられたものでも建造されたものでもないからだ。それは人間に気づかれないうちに、徐々に測り知れない地質学的な時間をかけて、それ以前から現在にいたるまで進行中である堆積、圧搾、隆起、浸食といった過程を通して形成される。こうしたプロセスは特定の時点ではじまるのでも、終わるのでもない。山はまだ完成されていないし、完成されることもない。したがって、地質学者がどんなに追跡調査をおこなったとkろで、その古さや年代を特定するのに十分でない。山について問うことは土台無理な問題であり、ましてや答えが得られるものでもない。モニュメントが古いことはあっても、山が古いということはあり得ない。
 それでは、マウンド(小山)についてはどうか。それが、どれくらい古いものといえるだろうか。一見したところ、山よりは人工的で、モニュメントよりは自然に近い。マウンドはそのふたつの中間に位置するように見える。しかし、まさにこの自然と人工の区別は、そしてそれにともなう古さの問題は、つくることの質料形相論的なモデルの原則に基づく。つまり、自然に与えられた生のマテリアル(物質=素材)を、人工的な状態に引きあげるために純粋形式を無理やりあてはめることに基づいている。ところが、現象としてのマウンドはこの原則を受けつけない。それが確実に山と異なる点は、山よりも人間の尺度に近いということだ。疑いようもなく、その形成は山の形成よりも人間の労働や他の生物の活動によっている。それでいて山と同じように、その外形は力と物質の作用を通じて現出する。(ティム・インゴルド『メイキング 人類学・考古学・芸術・建築』左右社/2017/p.171-173)

パリのストライキで現れたゴミ袋の山は、人間の労働によって、力と物質の作用を通じて現出したマウンドである。そして、「袋を積む」のは人間ではあるが彫刻家ではない。それでもそこには彫刻が「立ち上がる」契機を認めたのではないか。

ところで、《オートリーヴのカリアティード》(1120mm×480mm×200mm)は、《袋を積む》の人物彫刻のように、ゴミ袋のような不定形の部位を削り出して制作された板状の人物像である。カリアティードであることを示すため、頭上にエンタブラチュアを表わす板を載せている。オートリーヴ(Hauterives)は、シュヴァルの理想宮(Palais idéal du facteur Cheval)の所在地である。郵便配達夫のフェルディナン・シュヴァル(Ferdinand Cheval)はある日石に蹴躓いて転びそうになり、その石を拾ったことをきっかけに、石を拾って廻り、積み上げるようになった。以来、33年かけて建設したのがシュヴァルの理想宮なるモニュメントである。シュヴァルは彫刻家=芸術家ではない。その点で、シュヴァルの理想宮もまた彫刻家=芸術家不在のモニュメントと言える。《オートリーヴのカリアティード》が直立ではなく膝を折っている形になっているのは、そのこと――アウトサイダー・アートとしての性格――を示すのかもしれない。だが、《オートリーヴのカリアティード》は何より、転んだシュヴァルが起ち上がりモニュメントを完成させる、すなわち躓きの石(pierre d’achoppement)(=失敗)が「理想」宮へとして立ち現われる転換・ないし反転の表現ではないか。しかもその手段は、「長期間にわたってものを積みあげていく」マウンド的な手法であることを示すのである。

《袋を積む》と《立ち上がる身》との間に見られる反転もまた、ゴミ袋(の山)を躓きの石として理想へと反転する狙いを認めるべきである。しかも、シュヴァルの石とは異なり、「収集されない」ゴミ袋という反転まで籠められているのである。だからこそ、ビニール袋のまま手を加えない(木彫として制作しない)ものとされたのである。そして何より、木彫自体、削ることにより何かが生み出される、反転的性格の営為だ。木屑が砂時計の砂のように堆く積まれるとき、彫刻が立ち上がる。木屑のマウンドは作品ではなく、せいぜい作品の存在を暗示する作用を持つに過ぎない。彫刻はそれ自体完結した事物として立ち上がり、美を指示するものでなければならない。彫刻の持つ、その当たり前の性格に改めて眼を向けさせられる。