展覧会『林武史退任記念展「石の勝手」』を鑑賞しての備忘録
東京藝術大学大学美術館〔本館・陳列館〕にて、2023年9月30日~10月15日。
《水田》、《林間》など花崗岩の彫刻によるインスタレーション、《夢間》・《石間》の2つの「茶室」など、石彫を中心に、木彫、ドローイングなどを併せて展観する、林武史の個展。
《水田》は、高さ70~80cmくらい、幅は120~150cm程度の黒っぽい花崗岩の厚手の板数枚を並べ、その列を隙間を空けて配置したインスタレーション。黄金の稲穂ではなく、出穂前の青い稲を表現するのだろう。花崗岩の板の列に正対すると、水田が手前から奥へと広がる田園風景となる。石板の列の間を歩けば、畦道を抜ける気分を味わうことになろう。
《林間》は、高さ200cm前後の花崗岩の柱19本を壁に立て掛けたインスタレーション。四角柱に近い形状だが歪で彎曲し、かつ上部先端がやや膨らんでいる。タイトルの「林間」という言葉から木の幹の表現と即断してしまうが、大きな頭部を持つ二足歩行動物である人の姿にも見える。また、「林」ではなく「林間」とされたタイトルは、「石柱」と壁との間に生まれる不定形の隙間、あるいは「石柱」同士の関係へと視線を誘うようだ。
《泉》は、高さ215cmの花崗岩の石柱であり、エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)の《叫び(Skrik)》の身を捩る人物のように捻れている。《林間》の石柱とは並べられたとしても区別が付かないのではないか。それほど両者は似た形状をしている。樹木、そして人は、水の流れであった。
樹木にせよ、稲にせよ、水を吸い上げて生長する。《林間》の石柱も《水田》の石板も、大地(地下)から水を汲み上げる生命であり、生命はいずれも水の流れの形象化である。そして、《白雨》では、白大理石の板に突起や穴を彫って水面に落ちる雨滴が表されることで、天から地へと水が下される。《泉》・《林間》・《水田》と《白雨》とで水=生命の循環が示される。
《15の蝉の声》は、取り取りの石を30cmほどの磨製石斧型などに造形された、幾何学的に抽象化された蝉が15個、壁に横一列に懸けてある。地中にいた幼虫が地上へと這い出し、羽化して天空へ飛び立つ蝉もまた、生命=水の循環を表わすものと言えよう。漢代の玉蝉の習俗にも通じる解釈である。のみならず、芭蕉の「岩にしみ入る蝉の声」を介せば、石には蝉が水となって染み込んでいると言えまいか。赤いボールペンによるドローイング《山間群蝉図》には山――岩と捉えても良かろう――に蝉が10匹ほど潜んでいる。山=岩には蝉が埋まっている。漱石の『夢十夜』の「第六夜」に登場する運慶のように、鑿と槌の力で彫り抜くようではないか。
《石間》・《夢間》といった石で覆われ、あるいは石で囲われた茶室は、石が水であることに気付くと、茶の湯=水のやり取りとしてふさわしいことが分かる。客が《石間》・《夢間》の石の板や木の板を踏みしめると、ときに大きな音がたつ。石に染み込んでいる生命の声を聞くよう促すのである。
石はそのような思考の媒介となる。作品にしばしば表わされる突起や穴は、全ては連関しているとの想念を呼び覚ます、抽象的な木組ではないか。