可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 吉野俊太郎個展『Plinthess』

展覧会『吉野俊太郎「Plinthess」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー美の舎にて、2021年5月18日~29日。

台座をモティーフとした吉野俊太郎の作品3点を紹介(企画:原田雄)。

展覧会のタイトルに冠されている"Plinthess"は、「台座」を意味する"plinth"から作家が拵えた言葉。作家によれば、台座は「上に載るあらゆるオブジェクトに〈彫刻〉を投射することができる、幻灯機のような演出装置」である。邪鬼のように「踏みつけられる」という「外見的性格」と、カリアティードやアトラスのように「支える」という「関係性」とを併せ持つ。換言すれば、従属と支配という「道化的両義性」を有している。

 この両義性に関連して、同じく我々の注目を惹くのは、アルレッキーノがしばしば女装姿で登場することである。ときには月の女神ディアーナとして現れるが、舞台図には女装でダンスをしている姿が散見する。そればかりでなく『宮廷の徘徊者アルルカン』という劇では、アルレッキーノは半身はレモン売りの男、半身は洗濯女として現れる。この劇の眼目は、アルレッキーノがマイムによって一時に二人の人間を演じるところにあるのだが、クライマックスでは、この「二人は一人」であるアルレッキーノが互いにつかみ合いをする。ゴルドーニの『二人の主持ち』においてアルレッキーノが、自身とパスクワーレ、そして二人の主人に対する二人の召使を演じたごとく、己れをいくつにも分ける舞台技術は真にアルレッキーノに属するものであったが、ここでは、それがアルレッキーノのヘルメス的側面と密接に結びついた形で舞台化されるのである。ヤン・コットは、シェイクスピア劇の『お気に召すまま』のロザリンド、『十二夜』のヴァイオラ、「ヴェロナの二紳士』のジューリアなどの女性の男装(実はその女性を少年が演じるという複雑な仕掛けになっているのだが)に、ルネサンスの両性具有神話の反映を見ている。(山口昌男『道化の民俗学岩波書店岩波現代文庫〕/2007年/p.131-132)

"Plinthess"とは、plinth≒prince=男性と、plinthess≒princess=女性との重ね合わせと解される。アトラス=男像柱であり、カリアティード=女像柱であるのだ。

《Plinthess Ⅰ》は、黒子と道化の衣装を組み合わせたデザインの白い衣装を纏った人物が、両手に白いキューブを持って、白い台の上で屈んでいる様子を撮影した写真作品。白いキューブもまた台座のようであるが、台座に一辺のみで接し(あるいは人物の手に支えられて接していないかもしれない)浮くように設置されていることで、〈彫刻〉と化している。「道化」は台座の持つ支配力の具現化である。

 (略)いわば、アルレッキーノは、人間と人間を超えたもの、日常と非日常、此岸と彼岸の中間に、すなわちすべてのものがたえず生成する地点に立っているヘルム(境界石柱)であり、その神話性においてヘルメスと対応する充分の性格を備えていたのである。(山口昌男『道化の民俗学岩波書店岩波現代文庫〕/2007年/p.153)

ドローイング作品《For Plinthess》において、箱の中から現れた「道化」(山口・前掲書p.23によれば、「アルレッキーノはどこからともなく、舞台に突如として躍り出て、人々を戸惑わせる」)が画面の外と箱の中とを指さしているように、日常から非日常へ、此岸から彼岸への中間領域、すなわち「すべてのものがたえず生成する地点」の象徴(=境界石柱)として、「台座」の擬人化である「道化」(≒アルレッキーノ)は存在する。そして、「道化」の行使する霊力によって、あらゆるものは〈彫刻〉と化すのだ。
《Plinthess Ⅰ》のイメージは、画面に登場する「台座」のような白い台に貼られている。そして、その下には、白い衣装を纏う「道化」の人形が「踏みつけられる」ように置かれている。画中の「支配」を象徴する黒子の「道化」に対し、人形の「道化」は「従属」の象徴としてそこにある。

《Plinthess Ⅰ》との連作となる《Plinthess Ⅱ》は、白い衣装の「道化」が、ちょうどアトラスが天球を支えるように、白い台座を背負っているイメージ。写真の貼られている「台座」の傾斜に対して、「道化」が抱える「台座」は、やや画面向かって右に傾いているものの、垂直に近い角度となっている。イメージの中の「台座」とイメージを支える「台座」との交差は、イメージの「台座」を発射する=投映する(project)かのような印象を生んでいる。