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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『BankART Under 35 2021 第2期』(敷地理個展)

展覧会『BankART Under 35 2021 第2期』(敷地理個展)を鑑賞しての備忘録
BankART KAIKOにて、2021年5月14日~30日。

BankART Under 35 2021」は、7名の作家を個展形式で紹介するシリーズ企画。第2期は木下理子、敷地理、金子未弥の3名を取り上げている。

パフォーマンス・アートを発表してきた敷地理の個展は、「自分は形のないものである(I'm a phantom)」の音写である「アマファントム(ama phantom)」を掲げて、「展示と上演の中間に立つこと」を企図したもので、インスタレーション、映像、写真から構成されている。

「graphic notation "ama phantom"」シリーズ(3点)は、見る角度によりイメージが変化する、シート状のレンチキュラーレンズを用いた作品である。作家の姿にガゼルやゾウ、バラが混ざり合う。作家という個体に対応する微粒子たちが、動物や植物の〈関係束〉へ組み変わるのを表した作品と言える。

 (略)ドゥルーズガタリは、事物の、さまざまな基準によって仕切られる「個体性」ないし「対象性 objecthood」を多元的に肯定していると考えられる。どんな「仕切り」による事物の束も、得意な「此性 heccéité」において個体的である。とすれば、究極の微粒子について語るのはなぜだろうか。それらへの還元・消去を必須としないのであれば、どうして原子論のおうに見える立場を採るのか。次のように考えられる。微粒子は互いに関係しているのだった。分子状になるというのは、事物を、諸関係に分析=分離することである。原子論的な立場は、事物を諸関係へと分析可能にしている――が、しかしこれは、事物の真なる成分を確定したいからではないのである。
 ドゥルーズガタリは、分析不可能性――事物すべての渾然一体=接続過剰――と、唯一に正しい分析可能性という両極を斥けて、多様な分析可能性を確保しようとしている。ドゥルーズガタリの「微粒子」論は、分析=分離されうる諸関係の「束」の、分析=分離可能であるがゆえの「組み替え」可能性を肯定するのに役立つ、と考えられるのである。
 本稿では、以下〈関係束〉というイディオムを用いることにしよう(別々の関係=述語=出来事たちの並立)。分析=分離されうる関係束、それに対応する個体は、別のしかたで関係束=それに対応する個体に〈組み変わり〉を起こしうる――これが、生成変化の原理である。
 (略)
 整理しておこう。何らかのNへの生成変化において、名辞「N」に対応するのは、分身N'の群れである。分身N'の群れとは、唯一に真ではない仮のアドホックな「N」の諸規定である。それらが、関係束である。或るN'から、関係束の組み変わりによって、別の分身N'へ移行する。或る分身N'=関係束は、個体的である。関係束としての個体を「モノ」と見なそう。それを構成する諸関係は「コト」である。事物は、複数のコトを束ねているモノである。
 (略)
 たとえば、デ・ニーロという個体に対応する微粒子たちは、別の関係束へ組み変わることができる。そのつどのデ・ニーロ自身が、関係束に分析されうるからこそ、カニに近くなるようにも再構成されうる=生成変化できるのである〔引用者註:『千のプラトー』において、ロバート・デ・ニーロが映画『タクシードライバー』で主人公の奇矯さを演じるためにカニ歩きしたエピソードに言及しているのを踏まえている〕。生成変化論は、関係束のアジャンスマン(組み変わり)の形而上学である。(千葉雅也『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』河出書房新社河出文庫〕/2017年/p.100-102, p.107)

中心となるインスタレーション《shivering mass, loose boundary "amaphantom (work-in progress)"》は、振動マシンの上に置かれた手袋や鉢植えなどがそれぞれ固有の周期で一定時間振動する、モノによるパフォーマンス。動物園で見た震えるガゼルに触発されて、「震えを自分を癒やす為のダンスとして捉え直し、不安とその表裏一体になった安心をテーマに振動というムーブメントからダンスを立ち上げようと試み」たという。震えを模倣することで、作家は世界と共鳴しようとする。

 古代ギリシャでは、音楽が人間の振る舞いにいかに影響を及ぼすか、ということが広く知られていた。たとえば、アリストテレスは、それを「模倣」から説明している。彼によれば、音楽は魂の動きや状態(優しさ、怒り、勇気など)を模倣したものだから、聞き手に同じような感情を呼び起こす。(略)
 (略)
 古代ギリシャでは、人体とはもうひとつの宇宙であると考えられていた。マクロコスモスとしての宇宙と、ミクロコスモスとしての人体である。ヒトの魂にはもうひとつの宇宙(ミクロコスモス)があって、それが外界に果てしなく広がる宇宙(マクロコスモス)と対応している。つまり、人体と宇宙はつながっている。人体の音楽は、宇宙の音楽のいわば縮図である。だからこそ、宇宙の音楽は、人間の精神や肉体に切実な意味を持つと考えられたのだ。
 ピュタゴラスの現存する最初期の伝記のなかに、彼が音楽を身体と魂の浄化として用いたという記述がある。ピュタゴラスは、さまざまな旋律の組み合わせを、いわば薬のように調合して、苦しみ、怒り、不当な競争心、欲望、思い上がり、気落ちなど、あらゆる気分に効果があるものを聴かせることで、それら鎮め、治療したという。彼は、音楽療法の実践者でもあったのだ。これは、イアンブリコスの『ピュタゴレイオス・ビオス』という伝記に登場する記述だが、ここからは、意中の調和の探求者としてだけでなく、音楽療法士としてのピュタゴラスの姿も浮かび上がってくる。
 ピュタゴラスは、宇宙の調和と魂を共鳴させるために音楽を用いた。「共鳴」とは、離れた物体の間に起こる同調の振る舞いのこと。これは楽器だけでなく、ふつうの物体間にも起こる。たとえば、ある音に家具とか食器がビーンと震えるのを経験したことがあるかもしれない。それが共鳴だ。あらゆる物体には固有の振動数があり、外部からの振動がその固有振動数に近づくにつれて物体の振幅が急激に増大するという共鳴のメカニズムは、ピュタゴラスの時代にはまだ知られていなかったにせよ、彼は、共鳴する音の特性をハルモニアとして活かし、音楽療法という実践に用いたのだ。(浦久俊彦『138億年の音楽史講談社講談社現代新書〕/2016年/p.42-44)

後ろ向きに歩くパフォーマンスを含む映像記録集《a practice of demonstration》や、鑑賞者に自らの左手をカメラ越しに見ることを要求する《burning dots》では、自己の身体という馴染みのものに対する違和感を生じさせている。

(略)なぜなら、この「無気味なもの」は実際にはなんら新しいものでもなく、また、見も知らぬものでもなく、心的生活にとって昔から親しい何ものかであって、ただ抑圧の過程によって疎遠にされたものだからである。(ジークムント・フロイト高橋義孝〕「無気味なもの」『フロイト著作集 第3巻』人文書院/1969年/p.347)

作家が敢えて「無気味なもの」を生み出すのは、「或るN'から、関係束の組み変わりによって、別の分身N'へ移行する」、すなわち生成変化のスイッチを入れるためであろう。