可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 鈴木明日香個展

展覧会『鈴木明日香個展』
不忍画廊にて、2022年5月13日~28日。

鈴木明日香の絵画展。

エアリアル》(2015)は、縦50cm×横150cmのパネルを横に4枚繋ぎ、幅が6mに達する画面を持つ。横に伸びる画面自体特異であるが、それ以上に作品をユニークなものにしているのは、画面のあちらこちらに描かれる腕(手)である。画面を覆う暗い雲の隙間から漏れる色取り取りの光を背景に、遠近もあって様々な大きさで描かれる腕は、輝くような白い肌を持つものもあるが、多くは僅かな光で暗く沈み、あるいはほぼシルエットとなっている。空に描かれていることもあり、鳥が翼を広げ群れ飛ぶ姿に見立てることも不可能とまでは言えまいが、写実的な描写がそれを容易には許さない。腕が伸ばされる様は何かを求める様のようであるが、それぞれの手の形は、よくぞこれだけ描き分けたものだと感心するほど、それぞれに異なっている。あるいは印相のような意味を含んでいるのかもしれない。暗い雲は様々な色味のオイルパステルを塗り重ねることで表わしたもので、銅版画に用いられるニードルで細かな点や線を刻むことで、下層の色が色取り取りの光となって現れる。その背景に、腕が油絵具で描かれている。
極端に横に長い画面は線形的な時間を連想させる。そして、色の層あるいは画面上の高低が音階を、腕(手)が音符をイメージさせる。画面全体が楽譜のメタファーになっていると言えまいか。

 音階は音の階段。こう書くと、ごくあたりまえのようだが、自然現象である音がどのようにして音階になったかと考えてみると、これは全然あたりまえのことではない。そこには、人類が音を手にするまでの、じつに膨大な時の流れがあるからだ。自然界の音は、そのままでは音楽にはならない。風と波の音を集めても、効果音にはなるかもしれないが、音楽とはいえない。その音をつかまえて整理し、音楽として使えるように高さの順に配列したのが音階だ。音階の誕生は、人が自然界の音に「かたち」を与えるための、とてつもなく大きなステップである。これによって、音楽がつくられるためのフォームが確立されたからだ。(浦久俊彦『138億年の音楽史講談社講談社現代新書〕/2016年/p.48-49)

エアリアル》の天空に鏤められた様々な手は、「人が自然界の音に「かたち」を与える」ars(手業)である音楽を意味するものではないだろうか。それならば、手の形のみで表わされる音楽は、旋律の音楽であるインド音楽に擬えることができるかもしれない。様々な手の形は恰も「ラーガ」に従うかのようである。

 インド音楽は旋律の音楽である。西洋音楽のように異なった音を同時に響かせるという和音(ハーモニー)の発想はない。と書くと、まるでインド音楽にはハーモニーの概念がないと思われるかもしれないが、そうではない。インドでは、音楽は全宇宙のハーモニーの縮図だと考えられているのだ。ここでいうハーモニーとは、和音というよりも調和を意味する。宇宙の縮図である人間は、脈拍、心臓の鼓動、波動、リズム、音調のなかに和音や不協和音を表し、健康、病気、喜びや苦痛は、どれも生命における音楽や、その欠如を示すという。これが、インド音楽の基本的な考え方である。
 旋律だけの音楽といえばシンプルに聞こえるかもしれないが、ここからが複雑だ。北インド音楽では、旋律は「ラーガ」と呼ばれる旋法の規則に厳格に従うことを要求される。ラーガには、音列だけでなく、旋律線の上行・下降の動きや、音列上の特定の音の強弱、ポルタメント(音程を滑らせて移行する)や、ビブラート(音程を微妙に震わせる)などの非常にきめ細かな規則がある。さらに使用すべき旋律形と避けるべき旋律形の規則や、朝、午後、夕方など演奏する時間ごとにも特定のラーガがあるという。
 サンスクリット語で「色」を意味するラーガは、まるで、赤、青、黄、黒などの組み合わせから数万もの色彩をつくりだすように、いくつかの音と表現方法の自在な組み合わせによって、多彩な旋律を生み出すための、まさに音のパレットだ。北インド音楽のラーガの総数は、あくまで理論上の数値とはいえ、3万4848種類(!)もあるという。長・短たったふたつの旋法の上に、多彩な音の建造物を建てた近代西洋音楽とは、あまりにも対照的だ。
 だが、ラーガをがんじがらめに縛られた厳格で窮屈なルールと理解してしまうと、インド音楽の持つ奥深さと魅力はみえてこない。ラーガは、インド音楽文化が、壮大な哲学と自然の法則から膨大な時間をかけて練り上げた、宇宙と自然のメカニズムに沿うための美しい体系であり、波動システムでもあるからだ。
 それに、ここがインド音楽のすばらしいところだが、ラーガは、規則によって演奏者を縛り付けるためにではなく、演奏者に真の自由を与えるために存在している。つまり、ラーガとは、全宇宙のハーモニーと調和するという魂の自由を得るための翼なのだ。(浦久俊彦『138億年の音楽史講談社講談社現代新書〕/2016年/p.26-27)

雲間から照り映える紫、青、水色、ピンクなどの空は様々な時間であり、それに応じて使用すべき旋律形が、数多の手の形とその組み合わせによって表現されている。空に浮かぶ手は鳥のようであり、「全宇宙のハーモニーと調和するという魂の自由を得るための翼」に擬えられる。

本展のメインヴィジュアルに採用されている《落日》(2014)(1620mm×730mm)では、(女性の)身体が太陽に擬えられている。あるいは《インフルエンツィア》では、身体の様々な部位が有明の月を取り囲み、月明かりを受けて様々な色に発光している。天体≒宇宙と身体=人間との影響関係が作家のテーマであることが窺える。

 さて、古代ギリシャ時代の音楽観がわかる恰好の資料がある。5~6世紀ローマの哲学者ボエティウスが著した『音楽論』である。ここに、古代ギリシャの音楽が3種の分類で示されている。「宇宙の音楽」(musica mundana)、「人体の音楽」(musica humana)、「道具の音楽」(musica instrumentalis)である。
 ところで、この3種の分類は、ぼくたちの常識的な音楽とはまったくかけ離れている。このなかでいまでも音楽として通用するのは、第3の「道具の音楽」だけだ。この「道具」には、楽器だけでなく人の声も含まれるというから、何か「音の出るモノ」を使う音楽は、すべて道具の音楽となる。ほかのふたつ、宇宙の音楽と人体の音楽は、メロディーがあって演奏できるような音楽ではない。つまり、聞こえる音楽ではないのだ。
 だが、古代ギリシャ人たちにとっては、どちらも音楽であることに変わりはなかった。それどころか、聴こえる音楽よりも聴こえない音楽が、より高度な音楽と考えられていた。肉体をコントロールするのは精神なので、精神は肉体よりも上位にある。したがって、耳で聴く音楽よりも精神で聴く音楽の方が高位にある、というわけだ。
 聴こえないのに、どうして音楽といえるのか、音楽を耳ではなく精神で聴くとは、どういうことか。音がなければ音楽ではないと思い込んでいるような現代人には、なかなか理解することができないが、よく考えてみれば、ぼくたちの周囲にも「聴こえない音楽」はある。
 たとえば、耳には聴こえないが、気配を感じる。これは「波動」を感じているということだ。空気を読むとか、オーラとか、テレパシーとか、これらも波動の一種だが、音もまた波動である。音楽を聴くことは、音を聴くことだけではなく波動を感じることでもあるのだ。そう考えれば、古代ギリシャ人たちが、天体の動きのなかに音楽を感じていたことも、おぼろげながらわかる気がする。
 どちらも聴こえない音楽と考えられている「人体」の音楽と「宇宙」の音楽。このふたつの音楽について、ボエティウスは、次のように書いている。まずは、人体の音楽から。「人体の音楽は、人間自らにかんするものである。人間の身体と、かたちのない理性の働きを結合するのは、調和以外に何があるか。それは低音と高音が協和するときの正しい混合の状態に似ている」。
 次に、宇宙の音楽。「宇宙の音楽は、天体、あるいは要素の結合、あるいは季節の移行においてとらえられる。天体という機会は、あれほど速く動いているので、音を生じないで動くなどありえない。たとえその音がわれわれに聴こえなくても、あのように大きな天体があのように速く動くので、音がしないなどということはありえない」。
 天体が動き回っているから音がするはずだとはすごい着想だが、それはともかく、ふあつの音楽はともに、「結合」「調和」など、何かと何かを結びつけることが強調されている。この意味するところが「ハルモニア」である。(略)
 (略)
 古代ギリシャでは、人体とはもうひとつの宇宙であると考えられていた。マクロコスモスとしての宇宙と、ミクロコスモスとしての人体である。ヒトの魂にはもうひとつの宇宙(ミクロコスモス)があって、それが外界に果てしなく広がる宇宙(マクロコスモス)と対応している。つまり、人体と宇宙はつながっている。人体の音楽は、宇宙の音楽のいわば縮図である。だからこそ、宇宙の音楽は、人間の精神や肉体に切実な意味を持つと考えられたのだ。(浦久俊彦『138億年の音楽史講談社講談社現代新書〕/2016年/p.38-41, p.43)

《黄泉比良坂》(2020)(160mm×273mm)は、青味を帯びた暗い画面の、右上から左下の対角線の右側に、手や腕が白い線で浮かび上がる。そこは平行して蛇行する線の繰り返しによって表わされた波が覆っている。対角線の左側は雲を思わせる模糊としたガスが広がり、その隙間からは光が漏れている。ところで青木繁の著名な同題作品《黄泉比良坂》(1903)(485mm×335mm)では、イザナギが黄泉の国で変わり果てた妻イザナミの姿を目にして慌てて逃げ帰り、死者と生者の境界にある黄泉比良坂を越えた場面が描かれている。暗い海中にも見える、混沌とした死者の世界である黄泉と、イザナミ自身を含む追手が縋るように腕を伸ばす姿とが縦長の画面のほとんどを占め、右上の8分の1程度に、頭を抱えて逃げるイザナギの後ろ姿が光を浴びて浮かび上がっているのが見える。本展に出展されている《黄泉比良坂》は、直接イザナギを表わす表現がないため、青木作品と同じ場面を描いたものかどうかは定かではない。もっとも、無数の手(腕)は、イザナギを追う、イザナミらの手(腕)と解することは十分に可能である。むしろ、イザナギイザナミの表現を避けたのは、黄泉比良坂をモティーフにしつつ、冥府下り一般に抽象化する狙いがあるのかもしれない。雲間の光としてオルフェウスを召喚し、無数の手が彼の音楽(音すなわち波)を手に入れようと藻搔く様に見える。「自然界の音は、そのままでは音楽にはならない。風と波の音を集めても、効果音にはなるかもしれないが、音楽とはいえない。その音をつかまえて整理し、音楽として使えるように高さの順に配列したのが音階」である。オルフェウスアトリビュートである竪琴は音階を視覚的にイメージさせる。黄泉に流れる波線は竪琴によって音楽へと整序されるようだ。もっとも、オルフェウスの竪琴は描かれていない、見えない竪琴こそ、「聴こえない音楽」すなわち「宇宙の音楽」と「人体の音楽」との象徴であろう。