可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 鈴木志歩個展『わすれもの』

展覧会『鈴木志歩展「わすれもの」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2021年4月12日~17日。

鈴木志歩の絵画14点を展示。

《あちらとこちらでご挨拶》は、やや横長の画面。上部3分の1は水彩絵具が滲んだような紫色、下部3分の2はやや白味がかったエメラルドグリーン。画面右上、上下の境界線を跨ぐ位置に角がとれた正方形が2つ。小さい方の朱と、その4倍ほどの赤紫。左下には緑色の方眼が描き込まれた白っぽい緑の三峯をもつ食パン一本の形。タイトルからは、子供連れの女性(小さな朱と紫)と男性(緑の食パン)が挨拶を交わしていると解することもできそうだ(ギャラリーに入って最初に目に入る作品として相応しい?)。だが、紫と緑の対置からすれば、「あちらとこちら」とは色相環の相対する位置のことと考えるのが素直だろう。補色をいかに組み合わせて魅せるかを画面で実験しているのだ。画面上部の水彩のようなにじみ、画面中央の地塗りの色の重ねられる色による見え方、画面下部の描線を消すような塗り方など、筆の使い方もヴァリエーションに富む。なお、朱と紫の組みあわせの部分は、マーク・ロスコの絵画を思わせるものがある。それに対置されるのは、葉蘭(和食の飾り付け)と捉えれば、アメリカと日本、太平洋の両岸でご挨拶と相成る次第。
《見つめる富士》は、クリーム色の画面の最下部に、湖水を表すものか、ややくすんだ青が帯状に塗られている。画面中央には、その「水面」と接しないように、2×2行列の丸括弧を茶色い線で描いたようなものが描かれ、その上には5つの山を並べた形の布が貼られている。富士を、樽形のビールジョッキに注いだビールのように表している。確かに、三峯となだらかな三角形で表せば容易に富士を表すことはできるだろう。だが、作家は、国内最高峰の峰を「王冠」として表し、なおかつそれを支える柱を垂直に近づけることで高さを誇張した。
《寄り添う》は、クリーム色で地塗りを施した画面の下3分の1を緑の水彩絵具を掃いたように表し、画面全体に長さが不揃いの6本の焦げ茶色の線を配した作品。水気を感じさせる緑に池を見ると、焦げ茶色の線は木立に見える。捻くれた見方をすれば、フローラルフォームに6本の枝を挿すフラワーアレンジメントも見られようか。だが、最高峰の富士のデフォルマシオンを見せつけられた後ならば、やはりトップクラスの人気を誇る等伯《松林図屏風》の抽象化を見るであろう。画面に対し樹木(線)をどのように配するか。そのバランスを楽しむ作品である。
《June》は、画面上部に白とクリームとで塗り込められた楕円が配され、そこから下に液体が滴ったような線が3本伸びている。低い位置に停滞する雨雲であろう。背景はクリーム色の地塗りの部分の他、紺、エメラルドグリーン、ピンクの矩形が配されている。画面左手の低い位置に並ぶ紺やエメラルドグリーンの矩形、そしてエメラドグリーンの矩形の上のピンクの矩形には、ピンクや黄色などの線が重ねられており、水や緑へと降り注ぐ雨滴のイメージを表しているようだ。右手の大きな紺色の面やその上のピンクの面には、色とりどりの線は描き込まれず、無機質な印象を与える。ビルなどの建造物を表すのだろうか。地を表す(?)矩形部分が左下から右上へと上がる階段状に配され、クリーム色の地塗りによる天(?)と工芸的な「片身替わり」を構成している。地上へと触手を伸ばすクラゲのようにも見える「雨雲」が、天と地とを繫ぐ役割を果たす。
《どちらさま》は、赤紫色のテーブルに置かれた青い壺に活けられた植物を見ている人物を描く。画面の左右の端にはカーテンを表すような波状の形が描き込まれている。背景は光を分散させるかのように淡い紺、赤、黄の組み合わせで描かれ、同様に人物も黄や赤の組みあわせで、恰も輝くように表されている。発光するような人物は、背景に溶け込まされて、3つの点で表された目と口、そしてテーブルに載せられた曲げた右手によって、壺に視線を誘導する役回りとされている。タイトルの「どちらさま」とは、分散によりスペクトルとなった光に投げかけられた言葉であろうか。
《その先に見えるもの》は、山並を低い位置に描き、空を広く表した作品。濃紺の山塊の奥に白っぽい青で山影が表され、さらにその先にもうっすらとした影が見える。空はベージュを中心に表されているが、筆跡が作る微細な影が表情となり、見応えがある。
「わすれもの」は忘れたことに気が付くまで認識されない。作家は、人々が世界を眺めるときに認識されていないもの(=「わすれもの」)を掬い取って呈示しようとしている。例えば、《かくれんぼしよう》において、存在が隠されることなく、画面に大きく表されている。そのとき、人はかくれんぼしているとの認識を持ち得ない。作者は、その認識を持ち得ない状況を産み出すことで、かくれんぼしているのである。作者は「わすれもの」を忘れることがないのである。