可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『エマイユと身体』

展覧会『エマイユと身体』を鑑賞しての備忘録
銀座メゾンエルメス フォーラムにて、2023年6月17日~9月17日。

シルヴィ・オーヴレの、ジャン・ジレル、内藤アガーテ、ユースケ・オフハウズ、小川待子、フランソワーズ・ペトロヴィッチ、安永正臣の作品を通じて、陶土ないし焼き物と身体との関係を考察する企画。

釉薬ないし陶土と身体という企画趣旨から外れ、霊≒言葉の観点から気になった点について述べる。

9階のエレヴェーターを降りると、シルヴィ・オーヴレの小さな仮面《Mask》、大口を開けた(頭部が全部口の)モンスターのような瑠璃色の壺《BlueBlue》、雪だるまと思しき《Untitled》が出迎える。奇妙だが愛嬌も感じさせる作品群は、吹き抜けの空間の側廊に並べられた「Brooms」シリーズ21点にも共通する。「Brooms」は、モロコシ藁、ヤシ、竹などの穂を持つ箒の柄の部分が目、高い鼻、歯などを持つ陶製の人形(ひとがた)になっている。穂に併せて様々な姿の人形はやはり愛らしさがある。人形に造形しているのは、人形を依代に霊力を宿らせることで箒に汚れを祓わせる祈りが籠められているのであろうか。

9階のケースに並べられたジャン・ジレルの「Seau paysage」シリーズは、(恐らく)高台と腰の無いでっぷりした鉢(桶)で、口縁がやや窄まっている。胴には季節と時間帯を異にした自然の景観が描かれている。どの作品も上半分は空が占める。邦題(邦訳)を風景「槽」としたのは、風景を満たした金魚鉢に見立てたからだろうか。確かに、世界を封じ込めた鉢は、「壺中の天」を器の外へと反転させ、あるいは器を透明にして「壺中の天」を可視化したかのようである。胴の下部、とりわけ「summer evening」は、円を添えたデカルコマニーの趣で、横尾龍彦の初期作品を思わせた。8階の壁に架けられた「Disque paysage」シリーズは、中央に穴の開いた円盤に風景画描き込まれている。円形は季節の循環を連想させる。

8階の隅に設けられたフランソワーズ・ペトロヴィッチの展示空間には、壁に架けられた1点の絵画《Dans mes mains》とともに数点の陶製の人形が並ぶ。左手にパペットを持つウサギのような耳の腹話術師が目を閉じている《Ventriloque》があり、クッションの上に寝かされた人形(ひとがた)《Calimero》がある。そして、人形(にんぎょう)を抱えた人物の半身像には《Tenir》の題(邦題は「手にもつ/つかむ」)が、両掌に小鳥を差し出す絵画作品には《Dans mes mains》の題(邦題は「私の手のなか」)が、それぞれ与えられている。舌(langue)ないし言語(langue)を介さないコミュニケーションの表現か。手を介して差し出しているのは音声として飛び立つことのない言語であり、言霊だろうか。
この点、内藤アガーテの《La Langue》は言の葉として陶製の言葉を差し出す。だが、言葉は植物のように、必ずしも思い通りには育たない。《Gardening》の庭の隅で途方に暮れる人物が示す通りだ。他方、顔全体を覆ってしまう黄色いボブハットに《Miscostruction》の名が与えられているのは、作家が誤解を恐れているためであろうか。否、コミュニケーションとは、誤解と誤解で成り立つものであることを示すためである。誤解しないとの思い込みこそ、誤解を招くのであるから。