可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 李禹煥個展『物質の肌合い』

展覧会『李禹煥個展「物質の肌合い」』を鑑賞しての備忘録
SCAI THE BATHHOUSEにて、2022年9月13日~10月15日。

紙、木、土、鉄に刻みを入れたり、穴を開けたりして、絵画のように展示した作品10点で構成される、李禹煥の個展。

《突きより》(1597mm×1297mm×60mm)(1972)では、木の板の全面に和紙が貼られている。縦横に4枚ずつ16枚の和紙が貼られていて、桟により16の面への分割が強調されている。1つの面には縦10、横9の穴が、画題の通り突き開けられ、紙の向こう側にある木の板が覗いている。
《紙より》(1647mm×1334mm×57)(1982)は、キャンバスを横に3等分するように和紙を貼った作品。上段の紙は右側にわずかにキャンバスが覗き、中断は左側にキャンバスが見え、下段は右側に紙が覆っていない部分が残る。3枚の紙の間にも隙間がある。皺が寄る部分や、紙を貼る糊によるものか、紙に浮く赤みを帯びた斑点が、表情を作っている。木枠で覆われ、絵画的な性格が強調されている。同題の別作品《紙より》(1647mm×1332mm×60)(1982)は、縦13枚、横11枚の和紙を画面に二重に貼り付けた作品。やはり皺と経年変化による赤い斑点が表情となり、木枠によって絵画性が高められている。
《引っ掻きより》(1355mm×786mm×60)(1983)では、木の板の全面に和紙を貼り、紙を縦に引っ掻く動作を全面に加えている。線が茎を、めくれた楔の形が葉のようで、全面に草が描かれているようにも見える。

《突きより》に穿たれる穴は、障子に穴を開けて覗き見る動作を模している。それが1440回繰り返されることで、見る欲望の無際限が強調される。もっとも、穴は、障子に目が浮かび上がる目目連という妖怪を想起させる。見ることは同時に見られることでもある。

 モンドリアンの後期までの作品は、見事な近代化への道程ではないか。1、外界との素朴な関わりから、2、外界の一部を対象として捉えるようになり、3、またその対象を構成概念とダブらせながら整理して、4、こんどは構成概念だけの展開図として絵画が仕組まれる。つまり領域としての外界は、やがて限定された対象として切り取られ、そして内的な構成概念と二重写しの段階を経てついに対象性の消滅にとって代わり、内面的な構成概念が全面化するということだろう。
 モンドリアンはこの自立した絵画によって注目されたが、しかし誰よりも早く、それが出口のない自閉空間であることに気づいた。描くこと見ることが概念を認識するに止まり、外界と関わることが出来なくなったことを知ったのである。外部性のない絵画は、透明な認識のテクストであっても、未知なもの、不透明な世界との出会いを不可能にする。外部性のない内面の全面化の歴史は、人間を窒息状態に追い込んだのだ。
 (略)
 格子縞に敷き詰められた無数の色彩が点滅する光景は、概念性や自立性を保ちつつも、自足的な完結性から1歩出て、外に向かって開かれた感じを与える。碁盤上のメカニックで華やかな画面は、ニューヨークという開放的で未知的な年の様子とまさによいアンサンブルを成している。(略)
 生きたニューヨークとモンドリアンニュートラルな絵画は、もちろん直線的に繋がるものではない。作品の様相が、対応し、刺激し合いながら、もっと別な次元を暗示したり、新鮮な高揚感を呼び起こしてくれることが重要なのだ。
 見るということは、見られるものとの出会いである。概念や対照性を越えて、未知な領域と触れ合い対話を交わすことである。モンドリアンのニューヨークシリーズは、それが新たな時代を予告する絵画であるばかりでなく、画家の見ることについて、そして作品を見るとはどういうことかを考えさせてくれる、予感に満ちた媒体だと思う。(李禹煥モンドリアン李禹煥『余白の芸術』みすず書房/2000年/p.52-54)

《紙より》の2作品(1982)に現れた赤い斑点は、紙に寄った皺と共に表情を作っている。恰も老人の皮膚のようだ。

 それら〔引用者註:作者がかつて展覧会で目にした、古代ギリシャの壁画やルネサンス時代の絵画など〕は、もはやある主張をもった当初の完璧な芸術作品ではない。長い時間のあいだに風化され、当時の完成度は崩れて、部分的には芸術となんら関係のない物質の様相が剥き出しだ。しかし、芸術であり続けようとする力と、自然物に還ろうとする力のその鋭い対立が、私には魅力的に不気味に映る。元来の芸術のみを見ることも、ただの自然の欠片に見てしまうことも出来ない。(李禹煥「風化より」李禹煥『余白の芸術』みすず書房/2000年/p.309-310)

《刻みより》(1285mm×1497mm×60mm)(1972)は、5枚の古材(?)の表面に鑿を入れ、長方形の捲れを全面に表わした作品。同題の《刻みより》(1355mm×1680mm×60mm)(1972)は4枚の板に、やはり同題の《刻みより》(1503mm×1240mm×60mm)(1973)は3枚の板に、表面に鑿を入れ、長方形の捲れを全面に表わした作品。後二者(4枚構成・3枚構成)は前者(5枚構成)に比べ、鑿跡の無い部分が画面の周囲に広く設けられている。

《Untitled》(330mm×410mm×80mm)(1986)と《Untitled》(430mm×505mm×50mm)(2008)は、テラコッタの作品。前者(1986)は陶板の表面に陶土を付着させて3段のうねる不定形の盛り上がりを作り、全面に白い化粧土をかけたもの。後者(2008)は陶板の中央辺りに1個所、斜めに削る動作を加えて穴(貫通はしていない)を作った作品。

私は砂漠に、数個の欠けた石柱が立っている光景が好きだ。
消し去ろうとする力と、立ち続けようとする力の張り合いが見えるからだ。この張り合いの中に時間の姿がある。砂漠が大きな見える場所になるのは、こうした痕跡、破片によってである。(李禹煥「砂漠」李禹煥『余白の芸術』みすず書房/2000年/p.22)

《Untitled》(2008)の明るい赤茶色の素焼きの表面に挿し込まれた穴は、砂漠に踏み出した最初の1歩の痕跡のようで、どこまでも続くかに思われる砂漠を越えるための長い旅路を想起させる。

《Relatum》(400mm×600mm×mm)(1979)は、鉄板の上に3行4列の形の異なる鉄片を接着した作品。この作品だけは他の作品のように壁面に掛けられず、台の上に設置されており、彫刻的な性格が強められている。