展覧会『横溝美由紀「Landscape やわらかな地平のその先に」』を鑑賞しての備忘録
ポーラ ミュージアム アネックスにて~2021年12月10日~2022年1月30日。
絵画11点とインスタレーション1点とで構成される、横溝美由紀の個展。
中央通り側から銀座ガス灯通り側へと伸びる長方形のプラン(但し銀座ガス灯通り側に床面の一部が矩形に延長されている)を持つ展示室の中央には、透明のプラスティック製の直方体(105mm×210mm×60mm)をOPPテープで巻いたものを煉瓦のように組んで積み上げた高さ40cmほどの壁のような作品《aero sculpture》が、壁面に対して斜めに設置されている。ガラスの壁面越しの銀座中央通りの景観(ポーラ銀座ビルのポリカーボネート製の可動パネルとの相性も良い)、クロード・モネ(Claude Monet)の睡蓮の絵をモティーフとした絵画5点を展示した壁面、フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh)の《草むら(Touffes d'herbe)》をモティーフとした絵画を展示した空間、画面に1本だけ線を引いた「the line」シリーズ5点を展示した壁面と、「低い壁」が会場を4つの場へと緩やかに切り分けている。
絵画作品は、いずれも油彩を施した糸を弾いて描画したもの。クロード・モネ(Claude Monet)の「睡蓮」を題材にしている、高さが1455mmに揃えられた白い地塗りをした画面5枚を横に並べて1組とした作品には、青・紺、緑、赤、黄・山吹などの水平・垂直の線の交差が、画面上側に余白を多く残して配されている。縦横の直線で構成されながら幾何学的な印象を生まないのは、線が均一ではなく肥痩があったり途切れ途切れであったりする上、糸が弾かれた際の絵具の飛沫が見られるからである。この作品の前では、《aero sculpture》は、僅かに波打つ穏やかな水面となって、立ち現れる。モネは睡蓮を数多く描いているため、いずれの作品をモティーフとしているか(あるいは、特定の作品だけをテーマとはしていないか)は分明でないが、横に長い画面はオランジュリー美術館所蔵の《2本の柳(Nymphéas, les deux saules)》(2000mm×17000mm)を連想させる。中央の2枚《landscape 03_L3/5.M150.2021-Study for Water Lilies by Claude Monet》(1455mm×2273mm)・《landscape 03_L4/5.M150.2021-Study for Water Lilies by Claude Monet》(1455mm×2273mm)が横長の画面であり、下端から3分の1ほどの高さに画面を横断する横方向の線を集中的に描いているのに対して、左側の2枚《landscape 03_L1/5.F080.2021-Study for Water Lilies by Claude Monet》(1455mm×1120mm)・《landscape 03_L2/5.P080.2021-Study for Water Lilies by Claude Monet》(1455mm×970mm)と、右端の1枚《landscape 03_L5/5.F080.2021-Study for Water Lilies by Claude Monet》(1455mm×1120mm)では、縦方向の線が左右両端に多く表わされていることも、手前(画面下端)の睡蓮と水面、画面両端の柳という《2本の柳》との関連を思わせる。
《landscape-Study Clumps of Grass by Vincent van Gogh》(1000mm×1000mm)は、フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh)の《草むら(Touffes d'herbe)》(ポーラ美術館所蔵)をモティーフとしている。《草むら》にはオオバコのような草が細い線状の葉(あるいは茎)を放射状に伸ばす草地が画面一杯に広がる。この作品をテーマにした「landscape」では、画面全体に、濃淡の緑を中心に、黄、オレンジ、青などの絵具が配されている。色ととともに線の粗密によって「オオバコ」が表現されている。余白を大きくとった睡蓮をテーマにした5枚組作品と異なるもう1つの点は、絵画の上下左右の辺に対して線が斜めに走ることである。睡蓮の落ち着いた景観に対して、草熅れがする草叢の動態が表現されている。
(略)ドローイングを描くことは、はじめに頭のなかを満たしていたものを、手をつかって空にすることではない。つまり心から紙に全体像がそっくり転じることはないのである。むしり手と頭は、ともに作品がたえず生成するあいだ、ずっと共犯関係にある。ローソン自身も認めるとおり、視覚芸術におけるドローイングの独自性は、時間と運動の表現にある。「アーティストの動きが残した痕跡を、時間に沿ってたどらないのなら、われわれは大切な点を見落とすことになるだろう」。この意味で、視覚芸術の分野の伝統的な分類法はさておき、ドローイングは、たとえば絵画や写真より音楽やダンスに近い。作家で批評家のジョン・バーガーはいう。写真は時間を止めるが、ドローイングは時間とともに流れる。バーガーはまた、こんな提案もしている。「このように考えることはできないだろうか。ドローイングとは、時間の流れの表面に生じる渦なのだ」。語るドローイングはイメージではないし、イメージを表現するものでもない。それは身体動作の痕跡である。
さて、語るドローイングが音楽に似ているのだとしたら、鉛筆やその他のしるしをちけるための道具は楽器に似ているのではないか。近代抽象芸術の偉大な始祖であるワシリー・カンディンスキーは、そのエッセイ「点・線・面」において明快な比較をしている。たとえば、わたしがチェロのような弦楽器を演奏するとき、弓毛が弦と触れ合うことで、弓をあやつる腕の動作から旋律的な音の流れが生まれる。鉛筆の線の流れも同じである。つまり、ドゥクタス(手の運び)が紙面にみずからの道筋を見いだすのだ。また、弓にかかる圧に応じて弦の振幅が変わるように、製図家の筆圧によって線の濃淡も変化する。このように製図家の手のなかの鉛筆は、わたしのチェロのように変換装置として仕えている。第7章での定義〔引用者註:変換装置は、ドゥクタス(手の運び)、つまり所作の身体的な性質やその流れや運動を、身体の運動感覚から物質的な流れへとカテゴリー変更を行なうもの〕を思いだそう。変換器は身体動作の運動的な性質――つまり、そのドゥクタス(手の運び)――を、身体的運動と意識の記録から、物質的な流れの記録へと変換する。したがって、鉛筆は投影のベクトルなのではない。パルラスマのいうところの、建築家にとっての「イメージ(想像)する心と紙上にあらわれるイメージとの架け橋」ではないのだ。(ティム・インゴルド〔金子遊・水野友美子・小林耕二〕『メイキング 人類学・考古学・芸術・建築』左右社/2017年/p,266-267)。
油彩を施した糸を弾くという描法は、弦楽器をイメージさせる。また、その描法によりもたらされた線は、「身体動作の痕跡であ」って、「はじめに頭のなかを満たしていたものを、手をつかって空にすることではない。つまり心から紙に全体像がそっくり転じることはない」。
「書く」ということは「筆蝕する」と言い換えることもできます。そして「筆蝕する」とは、思考する、考えることの別名でもあります。
頭の中でもやもや、ぼんやりした意識であったものが、書くことによって、眼前にさまざまな想念の像が少しずつ姿を現わし、言葉に転じていきます。書くということは、この想念の像を記録するだけではなく、その想念の像をつくり出す力でもあります。筆記具の尖端が紙(対象)に触れ、力をやりとりする現場である筆蝕はこの想念の像と言葉をつくり、それらをこわす場でもあります。
哲学者・坂部恵が、『鏡のなかの日本語』(1989年)の中で。「色を見る、音を聞く、日本料理を味わう、バラの香を嗅ぐ」というように五感の中の視覚、聴覚、味覚、嗅覚については助詞「を」を用いるのに対して、触覚の場合に限っては「机にふれる」と「に」を伴い、他の感覚とは異なることに触れています。主体である「私」が客体である「色」を見るのとは異なり、「に」を伴うことは、主体が客体化し、客体が主体化するという逆説の立場であることを証しています。筆記具の尖端が紙に「触れる」ことによって生じる筆蝕の現場には、前もって作者主体が存在するのではなく、「触れる」ことによって、触れる主体と触れられる客体が生れ、同時にそれは、客体(実は主体)によって主体(実は客体化している)は触れられているという主客が転倒する逆説の現場であるとも言えます。筆記具の尖端は紙に触れられているという相互関係が具体的な力のやりとりを通して成立しているのです。
(略)
筆蝕は思考する。書き手である作者が思考すると言うよりも、筆蝕が思考するのである。書くことなしに、作家や詩人の脳裏に小説や詩の言葉がくっきりと浮かんでいるなどということはありません。あくまでも書くことを通して、つまり「筆蝕が思考する」ことを通じて、小説や詩は生れてくるわけです。むろん実際に書いていない場合にも思考することはありえます。しかし書字を知った後のそれは、幻想、無自覚の中でペンを走らせているのだと考える方が正確です。(石川九楊『書に通ず』新潮社〔新潮選書〕/1999年/p.35-37)
石川九楊は文字を書く「字画」と美術的な線とを区別するが、絵画もまた詩であるなら、「頭の中でもやもや、ぼんやりした意識であったものが」描く「ことによって、眼前にさまざまな想念の像が少しずつ姿を現わし」てイメージを生み出す描線に「筆蝕」を見ることは不可能ではないだろう。「心から紙に全体像がそっくり転じることはな」く、油彩を施した糸を弾くことが「思考」するのである。オフホワイトの画面に白い絵具の線を1本だけ引く「the line」シリーズの絵画など、筆蝕・構成・角度という書の美の三要素を見出して「書」との近似を見ることは容易い。翻って会場の全体を眺めたとき、《aero sculpture》というインスタレーションそのものが、会場に1本の線を引くという「書」であることに気付かされるのである。