展覧会『大西茅布「世界が沈む感じ」』を鑑賞しての備忘録
ボヘミアンズ・ギルド・ケージにて、2023年12月15日~27日。
大西茅布の絵画30点強を展観。
壁から垂らされて床へと続く縦8.5mの《海と空のあわい》(8500mm×2000mm)が展示空間の中心を占める。壁面に垂直に架けられた部分には後ろ姿の人物と、物干し竿に多数の衣服が吊された集合住宅のベランダとが併置されている(この点、《台所では媚とが行列(652mm×652mm)ではコンロの上に鍋と並んで人物の群れが描かれる)。ベランダのすぐ下に水面が迫り、そこからは画面が床に広げられている。床に敷かれた画面に展開するのは、水中で光を受け、あるいは闇に沈む人々の姿である。隣に展示された《津波の来た海》(650mm×520mm)から、津波の表現と考えられる(この点、日傘の人物を描いた《太陽を楽しむ》は、クロード・モネ(Claude Monet)の《日傘の女(La Femme à l'ombrelle)》に通じるが、津波を介してフクシマからヒロシマへの連関を想起するとき、アトミックサンシャインを連想せざるを得ない)。但し、津波は3.11など特定の津波を表現しているというより、むしろ日常生活に迫る危機のメタファーとして提示されているようだ。すなわち「世界が沈む感じ」を表わすのだ。ところで、ベランダはウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)の『ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet)』のバルコニーを、水に浮かぶ身体はジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)の《オフィーリア(Ophelia)》を介して、同じくシェイクスピアの作品『ハムレット(Hamlet)』を連想させる。巨大な踊る(?)人物の下半身と舞台袖の女性とを異なるサイズで1つの画面に表わした《舞台袖》(1303mm×1303mm)は、シェイクスピアのオクシモロンを連想させる。極めて演劇的――あるいはシェイクスピア的――世界が表現されている。
《この男には宇宙でさえ窮屈なのである》(1720mm×600mm)には、暗い青の中に背を向けて立つ人物が描かれる。会場の扉の大きさに合わせて制作され、その扉に貼り付けてある。棟方志功が釈迦の弟子を描いた版画作品を彷彿とさせる(なお、バレエダンサーのような女性と彼女を背後から支える人物とを描いた《開演》(1303mm×1303mm)では、画面の周囲に白い縁を残しつつ、そこに手足を食み出して描くことで、画面から飛び出すような効果を生んでいる)。鬱屈とした画面だが、そのことが却って、扉が開かれ、光が射し込むことへの期待を生み出している。それは、隣に闇の中に輝くような花々――スタイルは異なるが、倉科光子が描く津波の襲った場所に育つ植物「ツナミプランツ」を連想させる――を描いた《津波の来た村》(650mm×520mm)が展示されていることも関係していよう。そこにも一種のオクシモロン的な感覚が内包されていると言えまいか。
《海底を思う》(318mm×410mm)は、岸壁で釣り糸を垂らす人物の姿を捉えた作品。映画『はこぶね』(2022)に描かれたように、釣りとは見えない世界を見る行為なのだ。絵画、映画、演劇を始めとする芸術の役割とは、「盲目」になっている対象に眼を向けさせることである。