可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 三輪美津子個展『Full House』

展覧会『三輪美津子「Full House」』を鑑賞しての備忘録
SCAI THE BATHHOUSEにて、2022年11月1日~12月10日。

9点の作品で構成される、三輪美津子の個展。

冒頭に展示されている《Spirits》(295mm×75mm×75mm)は、透明な空瓶に黒い線で1点(正面)から眺めた瓶の輪郭線をなぞり、その輪郭線に挟まれるように、瓶(を正面から見たとき)の奥の外側に瓶と同型の小さくした図像を描いた作品。小さな瓶のイメージの描線には、顔と首、上半身(腕)と下半身(胴)に寄せて人の立ち姿に見せるために、微妙なアレンジが加えられている。酒瓶にかつて入っていた(が、今は存在しない)酒(sprits)と、幽霊(spirit(s))とを表現するのである。

《Entrance or Exit》は、展示室の角の2つの壁面の、床に接する位置に、正方形(ないし長方形)の上に半円を組み合わせた形の黒い図像を描いたもの(各275mm×155mm)。この作品のエスキース(220mm×220mm)が額装されて壁に掲げられている。穴ないし闇は、題名通り、入口=出口としての穴の形象である。あえて滲みや汚れを周囲に残すのは、それが描かれたものに過ぎないと強調するためであろう。すなわち、作品は実際には入口でも出口でもない――イメージに過ぎない――のである。入口や出口の亡霊である。

《Fracal Portrait》は、何も入っていない楕円形の額を撮影した写真を、被写体と同型の楕円形の額に収めた作品である。被写体の額が1つのもの(440mm×295mm)と、2つのもの(490mm×345mm)とがある。額は斜め位置から撮影されているために形が歪むため、タイトルとは相違して、図形の部分と全体が自己相似(再帰)の関係に立つ「フラクタル」とは言えない。だが、大雑把に入れ籠の関係にあるとは言える(因みに、出展作品のうち3つに登場する、白と黒の正方形で構成された市松模様は、フラクタルである)。何も入っていない額には、その透明の保護膜(ガラスないしアクリル)に何かが映し出されている。イメージを収めていない額に現われるイメージとは、幽霊であろう。

《HOUSE》は、白い壁に家の形を黒の輪郭線で描き(6500mm×4200mm)、その絵(壁面の下)に接する床に白と黒の石(5400mm×4200mm)で市松模様を表わした作品。"THE BATHHOUSE"の中に建てられた"HOUSE"であり、入れ籠の関係を作っている。もっとも、家の輪郭線の肥痩や滲みは手描きであることが、とりわけ精緻な石のパネルの幾何学模様と対置されることで、際立つ。"HOUSE"は虚像であり、やはり亡霊なのだ。
それにしても、なぜ市松模様なのか(余談だが、市松模様を独占しようとした金の亡者が現われたことも思い出される)。ピーテル・デ・ホーホ(Pieter de Hooch)やヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)といったデルフトの画家の室内画に登場する床のように、遠近を強調するためであろうか。否、他の作品との関係から考えれば、白と黒、すなわち明と暗という対極にあるものが現実世界を織り成していることを表現するためであろう。

 「賢い阿呆」や「無知の知」といった矛盾した表現をオクシモロン(矛盾語法・撞着語法)と呼ぶ。「オクシ」は「賢い」、「モロン」は「愚か」を意味するギリシャ語だ。まさに「賢い阿呆」が原意である。矛盾した内容をあえて結びつけるこの表現は、近代的な整合性にこだわらずに奔放な想像力を行使するシェイクスピアの作劇を特徴づける表現方法だ。
 なぜシェイクスピアが矛盾した表現を好むかと言えば、人間は矛盾した存在だという認識があるからだろう。こうしたほうがいいとわかっていてもそうできなかったり、好きな人を傷つけてしまったり、やってはいけないことをやってしまったりする。人間は理屈を超えた存在であり、矛盾の中にこそ人生の危うさやおもしろさがつまっているのだ。
 たとえば、『夏の夜の夢』では、結婚を祝って演じられる芝居が「冗漫にして簡潔な一場。とても悲劇的なお笑い」と説明されるとき、公爵が「これは熱い水、黒い雪というようなものだ」と、オクシモロンを用いている。『夏の夜の夢』では、若者たちが自分の恋人を追い求めて騒動を起こすが、ついに恋人が自分のものとなっておさまりがついたとき、ヒロインの一人は、恋人が「私のものなんだけど、私のものじゃないみたい」に見えると言う(第4幕第1場)。いつまた離れていってしまうかわからない恋人の心を今つかんだという思いにまつわる不安は、逆に今のはなかい喜びを強めてくれるのかもしれない。(河合祥一郎シェイクスピア 人生劇場の達人』中央公論新社中公新書〕/2016年/p.135-136)

「矛盾の中にこそ人生の危うさやおもしろさがつまっている」、「人間は矛盾した存在だという認識」をもとに、作者はオクシモロンの象徴として市松模様を作品に取り上げているのである。市松模様は矛盾を結合させる術(ars combinatoria)の象徴と言える。作家の提示するのは、シェイクスピア同様、「合理的には絶対につながらない複数の観念を、非合理のレヴェルでつなぐ超絶技巧」である「マニエリスム・アート」(高山宏『近代文化史入門 超英文学講義』講談社講談社学術文庫〕/2007年/p.65)なのだ。

 AであってAでないという、矛盾律を否定した世界こそシェイクスピアの喜劇世界だと言ってよい。論理学の世界とちがって、実人生では、ものとのはわりきれない。そうなのだがそうではないというどちらつかずのことがあるから、人は悩むのだ。「私」というものの中身も変化し、「良い」と思っていたものが「悪い」に変わったりする。
 こうした矛盾を受け入れる発想は、当時の人文主義思想の根底を支えた新プラトン主義の考え方にあって。「反対の一致」ないし「対立の一致」(coincidentia oppositorum)という概念を提唱したクザーヌスによれば、これは「無知の知」(知ある無知)と関連している。クザーヌスは、神の本質である無限において、極大である神と極小である被造物は一致し、神の調和のなかであれゆる対立は一致すると説いた。三角形の一辺を無限に長くすれば三角形は直線と一致する。そのように極大においてあらゆる対立は解消されるというわけである。
 クザーヌスは、宇宙の中心を人間と考えたことでルネサンスの思想への橋渡しをした重要な哲学者である。人間を描いたと言われるシェイクスピアのものの見方は、このような当時の時代思想に基づいているのだ。(河合祥一郎シェイクスピア 人生劇場の達人』中央公論新社中公新書〕/2016年/p.141-142)

フラクタルたる市松模様は無限の広がりを象徴する。その極大ないし無限(=神)の形は、神の似姿である極小の被造物(=人間)で構成される。市松模様は神、そしての人間の"Self-Montage"なのだ。