可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 川内理香子個展『Even the pigments in paints were once stones』

展覧会『川内理香子「Even the pigments in paints were once stones」』を鑑賞しての備忘録
WAITINGROOMにて、2023年11月25日~12月24日。

キャンヴァスを支持体とした油彩作品と様々な色と模様の石に線を刻んだ作品とで構成される、川内理香子の個展。

《walking》(910mm×727mm)のキャンヴァスには、主に薄紫の絵の具が荒々しく塗り付けられ、画面から食み出す。最上部は円弧状に、その下では横方向に筆が運ばれている。画面下側では主に縦方向に筆が動かされ、緑の絵具が混ぜる。世界は全て同じ薄紫で構成され、そこを1頭の獣(豹?)が歩く姿をペインティングナイフで画面を引っ掻いて表わしている。
《Splash mountain》(455mm×380mm)は、緑、白、赤、藍の絵具を横方向に塗りたくったキャンヴァスに、蜷局を捲く蛇のような体を持つ長い嘴の鳥をペインティングナイフで引っ掻いて描き出している。
《A day in the life》(455mm×710mm×50mm)は、白味や青味のある部分と縞状になったベージュの石板に、ヤシの木、鳥、獣、ワニ、バスケットボール(?)、心臓、三日月などが陰刻されている。モティーフないしテーマは、キャンヴァスの作品と共通する。ただ、背景となる世界が、キャンヴァスでは絵具を重ね塗ることで瞬時に作られていたのに対し、石板では遙かな年月をかけてゆっくりと形成されているという違いがある。絵画は石板の悠久の世界を再現しようと目論まれているのであり、同時に、それがかえって人の儚さを露わにしている。

 自然から文化への移行をしるす「空虚な形式」に相当する位置の筆頭には料理の火がある。〔引用者補記:レヴィ=ストロースの『神話論理』〕第1巻『生のものと火にかけたもの』は、こうした火を人間はいかにして獲得したかという火の起源論神話を軸に展開する。火の獲得が自然から文化への移行をしるす至高の出来事であり、ヒトは料理を知ることによって人になった。あらためて指摘されなければわたしたちが日常のなかで忘却しているこの普遍的な自明の理を、レヴィ=外ロースが解析する南北アメリカの神話は、手を変え、品を変えて確認している。だが、そのことを説得力をもって論証したことが『神話論理』の主な功績なのではない。神話が時には思いもかけないやり方で、人間が生きることのさまざまな条件を、この基本的な主題からがけない派生する論理的な系として推論し、自然と生命の多様性に問いを投げ返し、自然のなかでの人間の生の位置と意味を検証していることを、膨大な神話群(研究対象にとりあげられた神話は通し番号で800を超えるが多くのヴァリアントも数に入れれば1500に近い数であろう)に深く沈潜することによってしめしたことこそ『神話論理』の功績なのだ。
 人間は火を獲得した。いかにしてか。ジャガーから奪うことで、と神話は答える。火を奪われたことでジャガーは今では生で肉を食う。そして火はも輝くジャンガーの眼のなかだけに残されている。あるいは火は、かつてはコンドルだけがもっていた。人間は死んだ獲物の振りをしてコンドルをおびきよせ火を奪った。だから今、コンドルは腐肉を漁る死の領域の鳥になっている、というように。(渡辺公三『増補 戦うレヴィ=ストロース平凡社平凡社ライブラリー〕/2019/p.201-202)

《A day in the life》の天体や動植物とともに描かれた心臓(そしてバスケットボール)は、人間の象徴である。作家は、絵画に世界における「人間の生の位置と意味を」記そうとしている。その背景には、20世紀以来のアトム化した人間像がある。

 けれども、今世紀〔引用者註:20世紀〕の社会と文化を特徴づける「非人間的なもの
へのシフトは、オリジナルな「私」をかぎりなく不安定な場面に連れ出すことになる。大衆社会の出現と機械文明の発展は、「私」という主体から意思と個性をはぎとり、他の無数の個人と選ぶところのない客体に変えてしまうのだ。この意味で、こうした傾向が強調されようとしていた19世紀末のフランス社会で、ジュルジュ・スーラやポール・シニャックらの若い画家たちが色彩を光の三原色の微少な点の集合として表現する点描画法を提案し、実践したことは興味深い。なぜなら、そこではあらゆる表象が同じ大きさの「点」によって構成されているのであり、こうして描かれる世界にはオリジナルなフォルムや色彩はもはや存在せず、すべてはミクロのドット無限の反復によって構成されているからである。(塚原史『20世紀思想を読み解く 人間はなぜ非人間的になれるのか』筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2011/p.246)

作家が絵画によって実現しようとしているのは、刹那で捉えられる数値化した人間を、世界や悠久の時間へと位置付ける試みではなかろうか。