可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 中島瑞貴個展

展覧会『中島瑞貴展』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2023年10月23日~28日。
 
手ずから作成した出ヶ原和紙に刷った木版画8点と別の和紙に刷った木版画1点、ドローイング作品11点の全20点で構成される、中島瑞貴の個展。

自分の顔よりも大きなパンを手にした幼い女の子の姿を描いた《ひとりじめ》(850mm600mm)が出迎える。画面中央に、頭頂部で髪を結わえたおかっぱの少女が、右斜め前から描かれている。小さな両手が抱えたバゲットの上から右に視線を送り、鑑賞者を見詰める。純粋な欲望は無心へと反転する。それは版木に彫られた像が紙に反転して現われることに通じる。作家が文字通り一から――楮の刈り取りから――作った和紙は、茶色味を帯びて、その生の色の同系色でまとめられたイメージは、セピアの古写真の世界へと誘う。ある意味、少女が「ひとりじめ」にするのは、茶に浸った――マドレーヌならぬ――パンである。幼気な童女を眼前に召喚しつつ、却って遙か彼方に見えなくなった鑑賞者の童心を想起させる。ウサギの形をしたスプリング遊具に乗る少女を描く《なくなってしまった遊具》(350mm×250mm)や、顔がシルエットとして表わされた女学生たち7人の並ぶ写真《さいごの放課後》(600mm×850mm)では、描き出されたイメージとともに、「失われた時」を指示するタイトルが、ノスタルジーを響かせる。
《ゾウを見ながら一休み》(600mm×850mm)は、父親と2人の男の子が並んで坐る場面を描いた作品である。右手前から左奥へ並ぶ3人の父子だけが――彼らの影とともに――描かれている。彼らが眼にしているはずのゾウは画面に表わされない。鑑賞者は描かれていないもの/現前しないものを、描かれているもの/現前するものから想像するよう迫られる。親子が坐るベンチまでも描き込まれていない――それでも確かにそこにベンチはある――のもまた、見えるものから見えないものが見えるとの作家がメッセージを送っているのだろう(得られる版が敢て版木より小さいのもその証左である)。空気のように見えないベンチにより父子が浮遊する。ベンチは時空を超えるタイムマシンである。作家にとって作品とは、失われたものを見せる装置なのだ。然もありなん、およそ芸術とは、失われたもの、見えないものを見せる装置であるのだから。