可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 馬場まり子個展

展覧会『馬場まり子展』を鑑賞しての備忘録
藍画廊にて、2022年9月5日~17日。

馬場まり子の絵画展。

《空 Ⅰ》(2200mm×3000mm)の画面左下には、ベンチに腰掛けた老人が、ベンチで眠っている。彼の背後(画面左端)にはコンクリート製の電柱ないし壁がある。画面の半分強は空白で、画面の中央に、遠くにいるのであろう、老人に比してかなり小さいスーツ姿の人物が左手に鞄を持ち、手前に近づいてくる姿が描かれている。遠景と解される画面上部には緑の森ないし丘、その奥には空とそこに浮かぶ雲を背に青い山並みが表わされている。この作品を特異なものにしているのは、スーツの人物のやや右上に描き込まれた、濃い緑の円の中の白い八角形である。異世界と通じるポータルであろうか。この幾何学図形が、この作品を単なる山を望む広い公園の真昼の景観と解することを拒む。恰もリクライニングシートのように倒されるように描かれたベンチでしどけなく眠る老人、彼がかつて働いていた自分の姿を夢見ている。確かに八角形は、法隆寺の夢殿に通じ、夢のイメージを鑑賞者に呼び覚まさないとは言えない。ここでタイトルに着目してみる。「空」とあるのは、遠景(画面上部)に描かれた雲の浮かぶ空(そら)のことなのだろうか。否、永久不変の実体や自我などはないという空(くう)を示しているのかもしれない。

 俳人長谷川櫂の『俳句の宇宙』、『古池に蛙は飛び込んだか』、『「奥の細道」をよむ』の3冊は、詩的なものに関心をもつものすべてに強烈な刺激を与えずにおかない三部作である。長谷川はそこで芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」を取り上げ、これまでの解釈のすべてに疑義を挟んでいる。
 古い池がある、蛙が飛び込む水の音がした。正岡子規から山本健吉にいたるまでそういう解釈である。長谷川はそれを否定する。まず、蛙が水に飛び込む音がした、静まりかえった古い池のイメージが思い浮かんだと解したのである。敷衍すれば、蛙が水に飛び込む音は流行、古い池のイメージは不易。前者を現象、後者を本質、すなわちフェノメノンとイデアといってもいい。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018年/p.304。歌仙集『一滴の宇宙』の作者による跋文の引用部分を孫引きした。)

フェノメノン(現象)からイデア(本質)を想起する。それこそ《空 Ⅰ》が描くものではなかろうか。働く私、夢見る私、聳える山。流れる雲。それら「流行」としての現象に対し、白い八角形が「不易」の本質としての「空(くう)」を表わしているのである。