展覧会『伊藤安鐘展「眼(まなこ)開きて尚、現(うつつ)を見ず」』を鑑賞しての備忘録
ガーディアン・ガーデンにて、2021年3月2日~27日。
第22回写真「1_WALL」でグランプリを受賞した伊藤安鐘の個展。
順路に逆行する形になるが、入り口から時計回りに進むと、まず、トンネルの闇の中から、正面奥の光の中に立つ女性2人のシルエットを捕らえた写真が掲げられている。"photography" という言葉を考案したジョン・ハーシェルが、カメラ・ルシーダを用いて描いた、《海辺の断崖にある洞窟、ドーリッシュ、デヴォン》(1816)を連想させる。写真の祖型を喚起する作品に並ぶのは、岩や石だらけの場所で黒い手の影を映した写真だ。トンネルのイメージの後にこれを見せられては、先史時代の洞窟壁画のネガティヴハンドを想起しないわけにはいかない。鑑賞者は写真の黎明からイメージの始原へと一足跳びに連れ去られることになる。また、トンネルの写真の闇は、手の影の写真の片身替わりのような闇に連なる。さらに、手の影の写真は台紙のようなペインティング作品に載せられており、右隣のペインティング作品へと連なる仕掛けが施されている。このイメージ相互の関連は、静止画像を並べることで生じる動画(motion picure)を想起させる。その想念を抱いて、続くモニターに映し出されている、砂浜の映像に駆け登る黒い服の女性たちが重ね合わされる映像と流木(?)の上の砂がわずかに動く映像とを眺めることになる。
「ネガティヴ・ハンド」作品に現れる画面左下側半分を占める直角三角形は、青空に羽を広げる蝉の写真にも見られる。蝉の写真は、間に挟まれる波しぶきのようなペインティングと、海岸に立つ三角形の岩の写真と三幅対のように展示されている。三角形の岩の下には白い波が立ち、水面には空と岩の姿とが映り込んでいる。そして、この三幅対は、三角形の岩を撮影した3枚の写真へと繋がる。女性の姿が画面右半分に映ったもの、女性の腕が右端にわずかに映ったもの、女性の姿が映らないものという3つの写真は、女性の消失(あるいは出現)という動画(motion picure)だ。イメージが動き出すことを強調するように、この作品の背景には白く泡立つ波の映像が投映されている。
関連した静止画の連続という映写フィルムのイメージは、雲(灰色)、山(赤・桃色)、海(青・緑)を描いたと思しきペンティングの画面右端から画面外へと縦に並べられた4枚の写真にも見られる。白い波が立ち、砕け、広がり、引いていく。寄せては返す波は、再生と逆再生のアナロジーともなる。高木の幹が作るシルエットの向こうに青空と海とを臨む、縦方向の動きを強調する写真を挟んで、映写フィルムのイメージそのものの写真が飾られている。橋脚(?)に映った、2つの橋がつくる黒い影の隙間が、縦に延びるフィルムの齣の連続に見える作品だ。映写フィルムのような光の中では、右手で高く掲げた傘をやや後方に向ける女性が、やや後ろに反った姿勢をしていて、フィルムの齣送りによって今にも動き出しそうだ。ハーシェルが《海辺の断崖にある洞窟、ドーリッシュ、デヴォン》に描いた洞窟前の傘を差す女性が、橋の下で動き始めるのかもしれない。
黒く太いフレーム越しに岩山を切り取った写真。鑑賞者の意識をフレームへと誘う。続いて、砂浜海岸を樹木の黒いシルエット越しに捕らえた写真。右上の隅には、チェーンで吊されたシルバーに塗られた木製フレームの左隅が重なり、そのフレームの手前側に、砂浜海岸で2人の人物が重ね合わせている脚の写真が設置されている。フレームは防潮堤で、それを越えた波の広がりと解し、フレーム(=防潮堤)の手前に置かれた、組み合わされた人の脚に人々の連帯する力を見るのは、3.11から10年というタイミングでは避けがたいだろう。すると、続く、海岸を歩く2人の女性の写真、砂浜のガードレールを跨ぐ女性とそれを眺める女性のイメージに、シテ(亡霊)とツレ(生者)との役割を重ねて見てしまう。タイトルにも「眼(まなこ)開きて尚、現(うつつ)を見ず」とあるではないか。落下する靴、崩落する砂と割れた鏡、飛翔するように駆け出す女性の後ろ姿、草木で覆われて閉ざされた階段。海岸のイメージが溢れる会場で、それらを3.11と結びつけないわけにいかないのである。
展示会場の壁の中段を、部分的に銀色の帯(silver line)が横断している。断続的なコンクリートの防波堤と解するのが素直である。だが、ここは牽強附会の謗りを免れないとしても"silver lining"と解したい。どんな不幸があってもそこには希望もあるというメッセージを作品から受け取りたいのだ。再び会場を、今度は順路に沿って辿ってみよう。寄せては返す波のように。最後には必ず闇の先に輝く光"silver lining"が待ち受けているはずだ。