展覧会『伊藤慶二「伊藤慶二の絵と陶彫」』を鑑賞しての備忘録
小山登美夫ギャラリー六本木にて、2023年11月25日~12月16日。
人物をモティーフとした絵画とやきもので構成される、伊藤慶二の個展。
会場には顔が執拗に並ぶ。ヴィデオ会議システムの画面さながら、3×3の格子に9つの異なる形の顔を表わした《9の顔》(910mm×727mm)や4×3に12の様々な表情の顔を描いた《12の顔》(910mm×652mm)などは、猪熊源一郎の「顔」シリーズを想起させる。
壁のシミが人や動物の顔に見えるということも、そのような太古の時代の人間の近くの名残であると考えればとりわけ興味深い。原始人にとっての人間や動物は、自分たちに敵対する危険な存在であれ自分たちに有用な存在であれ、死命を決する重要な対象であったであろう。現在に至るまで、人間の最大の関心は人間にある。壁のシミが顔に見えるのはきわめて人間的な現象である。問題は、それが見る人によってどのような顔に見えるかということだろう。同じシミの上に、ある人は恐ろしげな顔を認め、またある人は悲しげな顔を見るとすれば、その違いは個人の内から発せられた内的なイメージに帰せられる。(福田昌子「壁のシミはどうして顔に見えるのか」山中康裕・岡田康伸編『身体像とこころの癒し』岩崎学術出版社(1994)。但し、春日武彦『顔面考』河出書房新社〔河出文庫〕/2009/p.208からの孫引き。)
《顔》(652mm×530mm)は女性の胸像。直滑降的な撫で肩と同じ赤茶の太い首の上に黒い顔が載っている。顔は白い線で目鼻口、それに顔の輪郭が描き入れられている。アメデオ・モディリアーニ(Amedeo Modigliani)の描く女性を連想させる。背景には黄の地の上に白など複数の色を重ねて、垂直線の壁と斜線の屋根と、簡素な線で家を象っている。画面の周囲を黒い縁が覆うのは、女性が家の中にいる――窓辺に立つ――ことを表わすのかもしれない。女性の身体は台座のようであり、そこに設置された顔は彫刻的である。作品が「顔」と題されたやきもの群と並んで飾られていることからも間違いない。すると、絵画の類比である「窓」に肖像を表わすのは、陶彫と絵画との融合を示すものと考えられる。
約600年の昔、イタリア・ルネサンスの人文主義者、レオン・バッティスタ・アルベルティは、著書『絵画論』(1436)の中で、絵画と窓について次のように述べました。
「私は自分が描きたいと思うだけの大きさの四角のわく〔方形〕を引く。これを私は、描こうとするものを通して見るための開いた窓であるとみなそう」
窓は、室内にいるわたしたちに、四角い枠に囲われた外の世界の眺めをもたらしてくれるもの。絵画もまた、「今ここ」にいるわたしたちに、四角い枠に囲われた「ここではない世界」の眺めをもたらしてくれるもの。アルベルティが「絵画=窓」と簡潔に定義して以来、数えきれない画家たちが窓にインスピレーションを受けて作品を制作してきました。(東京国立近代美術館編『窓展:窓をめぐるアートと建築の旅』平凡社/2019/p.10〔蔵屋美香執筆〕)
《おとこ》(610mm×346mm×160mm)は、三角形に近い形の目、両目の間から真っ直ぐ下に引かれた線、その先にキャレットのように表わされた口がある平べったい顔が、将棋の駒のようなどっしりとした胴部の上に取り付けられた黒色のやきもの。ごく簡素で粗野な顔は顎を挙げ、尊大にも見える。胴の重量感は黒い肌と相俟って男性的であるが、仮面を展示するための台座の役割に甘んじている。正面と横からの顔、さらには影ないし裏の顔を重ね合わせたキュビスム的な女性像《黄い顔》(625mm×530mm)を介して、20世紀初頭の芸術家たちがアフリカから招来した文物に見た根源的な力強さに通じるものを見出すことも可能だろう。
最初期の民俗誌博物館や異国情緒溢れる品の愛好家たちがアフリカ大陸の物質文化を表象したのは、棍棒、槍、ナイフ、そして盾といった「原始的」な一連の武具によってであった。サハラ以南アフリカの中心部への探検、特に19世紀後半にピエール・差ヴォルニャン・ド・ブラザが率いたオゴウェ川流域の探検から帰還した際に持ち帰られたんおは、こうした大量の武具であった。そし、それらにともなってもたらされたのが、20世紀初頭にアール・ネーグル(黒人芸術)」の古典として知られるようになる一連の彫刻群であり、その筆頭が、真鍮や銅、ないしはホワイトメタルを薄く、あるいは板状に貼りつけた、木製のコタの遺骨容器の守護像(ガボン)だった。これらの様式化された守護像の多くは極限まで単純化された菱形の身体の上に、大きさも形もさまざまなあ飾りが上部や側面につけられた楕円形の顔が突き出ている。こうした像は、当初、アフリカ芸術の重要な原型である「仮面」あるいは「偶像」として解釈され、その非常に独創的な造型上の解決の手段は西洋人を魅了する源泉となった。金属片で丹念に飾られた凸面または凹面に目と鼻だけを浮き彫りで表わすという顔の特徴の単純化は、その見かけの単純さと細部の精巧さで凝縮された表現に直年した20世紀最初の10年間の西洋芸術家たちにとって、まさに衝撃であった。(エレーヌ・ジュベール〔孝岡睦子〕「20世紀西洋美術史におけるアフリカ芸術の衝撃:最初の出会い」国立西洋美術館・京都市美術館・日本経済新聞社編『パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展―美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ』日本経済新聞社/2023/p.40)
長方形の底面に台形と三角形の側面を持つ《おんな》(360mm×320mm×198mm)は、台形の面の最上部に半円状の顔があり、目・花・口が彫り込まれる。上端には髪の毛の代わりに人物の小像が並ぶ。女性は古墳に見立てられ、その頂部に埴輪が並ぶようである。あるいは、和紙にペンやクレヨンで人物を表わした無題作品群のうち、赤い三角形に白い顔を載せた《untitled》(262mm×2501mm)は紙雛のようだ。原初、呪術へ通じるものが看取される。
《家と人》(455mm×380mm)は赤茶の屋根、クリーム色の外壁の中に佇む人影を描く。
顔は偽装する。顔は他人をしばしば欺く。顔は他人の目を曇らせる。肉体という密室の内部には、外見からは到底想像のつかないような心裡が息づいているのかもしれない。世間に流布するミステリの大部分は、観想学への反証とみることができる。(春日武彦『顔面考』河出書房新社〔河出文庫〕/2009/p.238-239)
人=顔は、家と同じく容れ物なのだ。人と家との入れ籠によって、人間という迷宮に誘う作品群である。