展覧会『松田真生個展「FOREST/YOSEMITE―かたちを探して―」』を鑑賞しての備忘録
Alt_Mediumにて、2023年12月8日~20日。
東京の住宅街の景観を切り取った「FOREST」シリーズと、ヨセミテ国立公園で撮影された「YOSEMITE」シリーズを交互に組み合わせて展示し、両者の共通性を浮かびあがらせる、松田真生の写真展。
メインヴィジュアルとして、《FOREST 04》と《YOSEMITE 05》とが併置される。《FOREST 04》の画面右手前には、白い壁に接する植え込みに剪定された低木が並ぶ。駐車スペースのアスファルトを挟み、奥に住宅の正面玄関がとその脇の植栽が見える。建物の壁が襞のように機能して植栽を抱え込むとともに、植栽の煉瓦、駐車スペースの白線、石段などの線がジグザグに視線を誘導する。《YOSEMITE 05》は切り立つ岩壁を背景とした森の景観である。住宅街と大自然とで異なる環境ではある。だが岩壁が樹木を抱え込んでいる点、スカイラインと植栽、あるいは縁石や白線とに相似を認めることができる。
福田平八郎は、《漣》(1932)において、切り絵のような青い描線の粗密に並べることで水面の揺らぎを表わし、《雨》(1953)では屋根瓦の変色により雨の存在を表わしている。両作品が共通するのは、水を表わしている点のみではない。波を描く点においてもである。瓦の撓んだ線の連続は容易に波のイメージを引き寄せるからだ。画家を惹き付ける形、あるいは画になる形は、自然か人工かに拘らず、存在する。
《FOREST 01》のクリーム色の壁の向こうに覗く民家、《FOREST 05》の白い壁によって隠されるスペース、《FOREST 06》の降ろされたシャッター、《FOREST 07》の植栽が隠す車など、「FOREST」シリーズは視界を遮るものを映し出し、見えない奥へと視線を誘う。他方、「FOREST」シリーズでは水辺の景観の中でも水鏡を捉えることで、景観をヴェールに包んで提示する。そこにもヴェールの奥へ、あるいは鏡像のもとになった見えない景観へと思いを馳せさせる。
(略)奥野健男は『文学における原風景』で昭和のはじめまで彼が少年時代山手の一画で遊んだ原っぱのそこここにあった小さな祠や石仏、石碑を通して土俗信仰のかげが濃く漂っていた事実を再三指摘している。そして地主神などの土俗信仰が仕出しに大きな集落信仰、氏神、鎮守社に吸収されていった後、最後に「原っぱ」の一隅に呪術的なたたずまいのある歴史的な共同幻想によってなめつくされた空間があると述べている。このことは日本の都市がごく最近まで、――そして恐らく今なお――巨大な村落であるという現象面だけでなく、本質的に田舎を内部に蔵していたことを示している。そして彼は原っぱは単に都市のなかで開発がおくれた空地でなくそれは神聖な禁忌空間であったとする。そしてそこには秘められた奥性が常にあったことはいうまでもない。彼がその中で引用する谷崎潤一郎の「少年」の一節は、これまで私が述べてきた都市空間の中の奥をあますところなく伝えている。
「東京にはもと武家屋敷であった塀に囲まれ、内部をうかがいしることの出来ない宏大な邸が方々にあった。そのひみつめいたものをしりたいという夢想、うっそうと樹の茂った庭、珍しい西洋館、家の薄暗い迷路に似た廊下、奥深い使われていない部屋、そこでの秘密の遊び、奴隷ごっこ……」(槇文彦『見え隠れする都市』鹿島出版会/1980/p.214-215)
「ひみつめいたものをしりたいという夢想」へと誘う形が探究された作品群である。