可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 神谷恵・古田和子二人展『あめつちの詞』

展覧会『第16回大学日本画展 東北芸術工科大学日本画コース卒業生二人展 神谷恵×古田和子「あめつちの詞」』を鑑賞しての備忘録
UNPEL GALLERYにて、2023年4月8日~23日。

神谷恵の星空をテーマとした作品7点と、古田和子の動物と人とをモティーフとした作品7点とで構成される絵画展。

神谷恵《ある日のファンタジー》は、路面に白いチョークでお絵描きをする幼女の姿を描いた作品、側溝に沿って家と花壇や植栽が並び、蝶が舞う。集水枡のグレーチング蓋から延びる鐵路には汽車が煙を上げて走り、いつの間にかアスファルトは星の瞬く宇宙へと転じる。惑星が浮かび、ロケットが航行し、星が流れる。その最中に少女は自らの姿を描き込む。麦わら帽の編み込の渦は、彼女もまた回転するミクロコスモスだ。麦わら帽の中に広がる無辺のマクロコスモスは、雨水の流れ込む集水枡から空想の鉄道を溢れ出させる。その逆しまの奔流が、アスファルトを宇宙空間へと反転させるのだ。
《ある日のファンタジー》は、幅約7mの大作、自転車で高台に上がった少女が眺める天の川を表わした神谷恵《眩めく夜》の絵解きとなっている。少女のシルエットには頭部を中心に星空が広がり、彼女自身がミクロコスモスとして表現されているのが分かる。幼女の麦わら帽の渦は、成長して行動範囲が広がった少女の自転車の車輪へと置き換わっている。少女の眼下の街明かりは蒸発して星明かりとなり、天と地とが反転する。さらに天の川の流路は汽車の鐵路に通じるのである。星々をつなぐ星座線が描かれているのは、描かれるのが天球――本来観測者からの距離の異なる天体を貼り付けた仮想の球面――であることを示すためであろう。観測者=少女を中心とした、彼女が生み出した世界を描き出すのである。

古田和子《早起きな親子》は、まだ満月が残る空を背にうねる巨樹の枝に佇む手長猿の親子を表わした作品。水色の背景は空であるとともに水面である可能性もある。いずれにせよ、仲睦まじく寄り添う手長猿の親子は満月に背を向けている。水に映る月を取ろうとして溺れ死ぬ猿(「猿猴捉月」)の画題を下敷きに、分不相応の大望を抱かずに自足することを訴える作品のようである。並べて展示されている古田和子《風の音をきく》における獣に手を伸ばそうとしている木陰の女性や、古田和子《モーメント》で水中に潜って蛸を捕まえる女性との対比で、手長猿が手を伸ばそうとしないことがより鮮明になる。
画面一杯に広がる樹木の枝に留まる2羽の鳩と飛び立つ1羽の鳩を描いた古田和子《風の音》。翼を広げた鳩以外に――例えば、葉が揺れるような――動きを感じさせるものはない。だが動きのない画面は風に耳を澄ますための仕掛けあろう。《風の音をきく》においてもあちこちに赤い花を咲かせる植物や女性の姿を隠す葉に風の動きは表現されない。風の音が聞こえるほど静けさが、地面に伏せる獣と女性との言葉のないやり取りだけを主題化させる。
古田和子《声》は森の中で腰を降ろしていた女性がいつの間にか傍にいた狐に驚く場面を描く。声は、その場に存在しながら感知していなかったものに対する気付きである。女性は木陰の山羊にはまだ気付いていないかもしれない。同様に、《モーメント》の女性が蛸に目を奪われ、人魚の存在を見逃してしまうのも、周囲の無限の可能性へ思いを馳せるよう作家が促しているのではなかろうか。
改めて《早起きな親子》が表現する自足とは、置かれた環境で耳を澄ますことで、その無限の可能性に気付くことで実現するものであることが明らかとなる。

神谷恵は自らに、古田和子は置かれた環境にと対象こそ異なれ、ともに無限を見出そうとする作家である点で共通する。