展覧会『松野有莉個展「Take a walk」』を鑑賞しての備忘録
PATH ARTSにて、2023年8月1日~13日。
身近な風景を、それを眺めるうちに生じるノイズのようなかたちを含め描いた絵画(シーチングにパステル)9点と、風景の写生画(キャンヴァスにアクリルガッシュ)1点で構成される、松野有莉の個展。
西洋において、自然の眺望を表した美術は、昔から歴史・神話・宗教などの物語を表すための背景として描かれてきた。すなわち、山や川などの風景は、ギリシア・ローマ美術では主に宗教的主題の背景として、常に様式化され、一定の約束事に基づいて象徴的に表された。これららの風景表現は、何れも付随的な役割し果たしていなかった。それは古代の神話的世界においては、ギリシャ的な価値観に深く根差していたため、自然の観念が二義的な役割しか演じることができなかったからであり、一方、中世の神的理念を重んじ、人間が感覚を通じて知覚する自然を罪深き対象と見る宗教的世界においては、自然は極度に図式化された様式をもって暗示せざるを得なかったからである。(略)
(略)風景は、16世紀に入ってようやく表現上の工夫や画家の知識によって具体化され、遠近法理論の発展により、中心的なモチーフへと変化していった。すなわち、イタリア、ルネサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチは純粋な風景画は残さないまでも、自然に対する絵画の新しい概念を具体的に示す中で、風景についての様々な観察をおこなった。同時期、古典芸術に興味を持ったイタリアの人文主義者たちは、ヴェネツィア派による、ヴェルギリウスの田園詩に想を得た風景描写を指示している。
これら風景描写のへの新たな関心は、精緻な細部描写を得意とする北方の画家たちによって、背景を描く新たな感性を生み出す契機となった。イタリア人たちは、フランドルの画家たちに風景を拡大させ、物語をその中に小さく描かせた。結果として幻想的で広大な景観の中に物語が埋もれるような絵画が生まれた。北方において風景表現が発展した理由は、さらに画家たちの置かれていた歴史的状況にも関連がある。すなわち宗教改革が美術界に波及し、画家たちは失業の危機に瀕し、その結果彼らは宗教的主題を伴わない輸出品として、自らの得意分野に目を向けたわけである。
フランドルからローマに活動の場を移す画家も次第に増え、彼らはイタリアの地で風景画家として地位を獲得するようになった。(略)こうして歴史画(物語・神話・宗教あどを主題とする絵)を重視するイタリア的風土の中で、風景画は徐々にその姿をあらわしはじめた。イタリア絵画と北方絵画とが交錯し、結果としてそれは、17世紀における「風景画」のジャンルとして創成につながる。(新畑泰秀「風景画への目覚め―17世紀のイタリアとオランダ」柏木智雄・倉石信乃・新畑泰秀編著『明るい窓:風景表現の近代』大修館書店/2003/p.2-3)
西洋美術史において、風景画は歴史画の中から徐々に姿を現わした。
17世紀初頭のローマは、ヨーロッパにおける芸術の一大中心地であった。(略)カトリックの復興運動、いわゆる反宗教改革の時代を経たローマ・カトリック教会は(略)プロテスタントに絶えず対抗する姿勢を見せる必要があった。だからこそ教皇〔引用者註:パウルス5世〕は、新教とは異なる寛大さを見せる意義を認識し、(略)抑圧よりは明朗な気分の醸成に努め、排他的であるよりは受容を促した。それは(略)ウルバヌス8世(在位1623-44)に受け継がれ、熱狂的な感情、すなわち「バロック」として知られる華麗な美術様式の興隆を促す結果となった。こうしてローマは、現地の画家はもとより北方からやってくる画家に彼らの望むものをことごとく提供する環境をもたらすことになった。そこには古代より生き長らえ続けた輝かしき遺跡があり、盛期ルネサンスの栄光があり、同時代の美術界の動向、リアリズム、バロック、あるいは古典主義的絵画の復興があった。(略)
この環境を求めて、フランスからローマに相次いでふたりの画家、クロード・ロランとニコラ・プッサンがやって来た。彼らはそれぞれの立場で絵画の古典主義的な要素を重んじつつ、北方の絵画が培い、発展させた風景表現との融合を図る。彼らのある作品においては、主題にまつわる人物が自然の中に点景として描かれ、風景の比重が高まった歴史画が描かれる。すなわち歴史画でありながら風景画単なる背景から脱して主題と拮抗する作品が新たな展開を見せ始めたのだ。それは純粋に写実的な風景画とは一線を画す「理想的風景画」と呼ばれる物語と風景を両立させたジャンルの確立であった。クラークはこれを以下のように説明している。
風景画は、それだけで絵画制作の目的となる前にまず、絵画の理想主義的概念つまりルネサンス以後300年にわたってあらゆる芸術家や芸術理論家が承認した概念に合わせて表現される必要があった。……風景画は内容的にも、形式的にも、宗教、歴史、詩を表わす、より高度の主題の絵と同列まで自己を高めるよう心がけなければならない。…ちょうど詩の語法が日常言語から選んだ優美なもの、古雅な連想を呼び起こすもの、調べよく言葉と連ねてゆけるものから成っているように、風景という顔の目となり鼻となるものも、自然から選択的に採り出さなければならない。Ut Pictura Poesis(かくて詩は絵のごとくに)。(新畑泰秀「風景画への目覚め―17世紀のイタリアとオランダ」柏木智雄・倉石信乃・新畑泰秀編著『明るい窓:風景表現の近代』大修館書店/2003/p.4-5)
背景ではなく主題となるためには、風景そのものが芸術――例えば、詩――としての実質を備えるものでなければならない。その実質を摑み取るまでは風景画には文学や歴史の支えが不可欠であった。
18世紀の英国の美術愛好家はこれ〔引用者註:ジェイムズ・トムソン『懶惰の城』(1748)の一節「ロランが柔らかな色調と軽やかな筆致で描き、荒々しいローザが大胆に描き、あるいは学識あるプッサンが型取ったもの」〕にあらわれている通り、プッサン、クロードやサルヴァトール・ローザといった古典的傾向を示す風景画を偏愛したのだが、それには啓蒙の時代にあって上流階級の西洋古典への造詣の進化も大きく関与している。英国の上流階級に愛されてきたヴェルギリウスの田園詩に霊感を得た古典的神話情景を映した文学は、彼らに強く訴えかけた。彼らの教養はギリシアとラテン文学、歴史の知識に基づいており、それゆえ彼らが美術作品に求めたのは、古典と巧みに合体を図った前世紀の異国の画家の風景だったのである。(新畑泰秀「風景画の興隆―18世紀から19世紀初頭のイギリス」柏木智雄・倉石信乃・新畑泰秀編著『明るい窓:風景表現の近代』大修館書店/2003/p.69-72)
イギリスでは「学識ある上流階級の古典古代趣味に端を発したイタリアへの「グランド・ツアー(大旅行)」により、「アルプスを越えてローマに達し、歴史的な遺跡のある風景を歩き回って『絵画的表現に適った』風景に触れ」、「それを自然と建築(時に廃墟)に融合させて描いたクロードやデュゲ」らの絵を故国に持ち帰り、同様の風景を故国の湖水地方や、ウェールズ、スコットランドで捜し求める旅に出る」ことで、「英国独自の風景美の発見へとつながっ」た。理想的風景美から自国の風景へと視線を移したリチャード・ウィルソンは英国風景芸術の先駆者として後続の画家に影響を与えた。J.M.W.ターナーは「実際的な風景にいかに歴史的な情景を盛り込」むかに腐心し、ジョン・コンスタブルは生地を霊感源として自然の情景を真実として描いた。文学や歴史との結び付きのない風景に対する眼差の転換を可能にした――すなわち風景に芸術の実質を与えた――のは、グランド・ツアーにおけるアルプス越えを契機とする「サブライム(崇高)」の発見であった。崇高は「壮大、粗野、危険、神秘、あるいは暗さ、深淵、孤独といったイメージを喚起する」のである(新畑泰秀「風景画の興隆―18世紀から19世紀初頭のイギリス」柏木智雄・倉石信乃・新畑泰秀編著『明るい窓:風景表現の近代』大修館書店/2003/p.84-91参照)。
ターナーらイギリスの風景画はフランスの画家たちに影響を与える。
(略)ここ〔引用者註:『美術家のための実用遠近法提要―絵画、特に風景画に関する考察および学生への助言〕で〔引用者補記:風景画家ピエール・=アンリ・ド・〕ヴァランシエンヌは、ド・ピールに倣い、風景画を「ペイサージュ・エロイク(英雄的風景画)」と「ペイサージュ・パストラル(田園的風景画)」に分類するが、それに「ペイサージュ・ポルトレ(肖像的風景画)」を加えている。「肖像的風景画」とは、まさしく風景を肖像のようにあるがままに描いたもの、すなわち自然の忠実な模倣とも言うべき自然主義的風景画のことであり、「田園を愛することと自然を心ゆくまで観察したいという思い、とりわけそれを真実かつ正確に描きたいと熱望すること」がその動機である、としている。すなわち、ヴァランシエンヌの風景画論は古典主義のみならず、自然そのものの観察の促進に寄与することになった。彼は、同書で印象派を先取りするかのように、自然の移ろいゆく効果を描くことすら説いている。
(略)
ヴァランシエンヌは言う。
画家は生来の才能を与えられているに違いなく、多くの旅をし、それ以上に旅について思索して来た。彼は古代や現代の作家たちに通暁しているに違いない……かくして彼は冷たく無味乾燥で、生気のないかたちで自然を描くのではなく、われわれの魂に語りかける声として、それ自身の表現で、また感性ある人に素早く人死されるような効果で自然を描くことであろう。(新畑泰秀「風景画の開花―19世紀初頭から中頃のフランス」柏木智雄・倉石信乃・新畑泰秀編著『明るい窓:風景表現の近代』大修館書店/2003/p.176-180参照)。
イタリア出身で、スイスで画家として注目されるようになったフォンタネージは、1855年のパリ万国博覧会でバルビゾン派の画家と交流し、後にはヨーロッパ各地を巡りクールベやターナー、コンスタブルらの作品に触れた。トリノで風景画教授をしていたフォンタネージは明治政府に招かれ、工部美術学校で教鞭を執ることになった(柏木智雄「風景画の開花―19世紀後半から20世紀初頭の日本」柏木智雄・倉石信乃・新畑泰秀編著『明るい窓:風景表現の近代』大修館書店/2003/p.211参照)。
(略)これらの資料〔引用者註:藤雅三の筆記録「フォンタネージの講義」・高橋源吉の筆記録「ホンタネシイ氏講義」〕において、画家の真の目的は、天然物や人造物を、幾何学・遠近法・解剖学に基づいて模写することになるとされている。その一方で、絵画が単に自然物を写実的に写すことを目的とするのではなく、そこに画家の創意を加え、絵を組み立てることが肝要であると述べている。
また、風景写生については、「凡写生ニ於テモ通常ノ場所ニシテ其画ニ成ルヘキ所ヲ選フヲ画工ノ力ト云也」「大凡写生ハ其出ル前ニ務メテ写生ニ行クナリト思フハ不可ニシテ只空ニ歩行スル間ニ不意ニ其目ニ当ル良キ場所ヲ選フナリ」(源吉筆記録)と述べ、何気ない場所で絵になる風景を見いだすのが画家たる者の力量であり、風景写生においては、無目的に遊歩する中で不意に目に留まった場所を選ぶことが肝要であると説いている。(柏木智雄「風景画の開花―19世紀後半から20世紀初頭の日本」柏木智雄・倉石信乃・新畑泰秀編著『明るい窓:風景表現の近代』大修館書店/2003/p.214)
《Take a walk》(1235mm×2100mm)は、アーチのような流木(?)のある砂浜から海を眺めた景観。ベージュの砂に似た色の「流木」は、画面の右端で画面半分ほどの高さの柱となり、そこから画面の左端までごく緩やかなカーブを描いてほぼ水平に延び、右側はすぐ画面から消えてしまうものの同様にアーチを延ばしている。左側のアーチの下側には波打ち際が、左端のアーチの上部には磯がそれぞれ覗く。「流木」が画面に溶け込んでいるのは、穏やかな海面の向こうに広がる山型の雲との類比のせいもあるだろう。だが、「流木」を目立たなくしているのは、画面に描き込まれた針金のような細い線に目を奪われるからかもしれない。オレンジに紺を重ねた「線」は、画面の左端から流木のアーチとほぼ平行に右側に向かい、途中で下に折れて砂浜で折り返してアーチを囲むように円を描いて切れる。そこからやや距離を離した先に、切断された点から連続していたかのように宙空に再び「線」が現れ、一旦やや上空に延びると、流木の柱の手前に向かって降りて砂浜に刺さる。その「線」と連続しているのか、やや海側の砂の中から再び「線」が延びて画面右上にアーチを描くように延びていく。
「線」は視線を誘導するためのものだろうか。磯と「流木」のアーチから、アーチの影の映る砂浜へ、そこから海、さらには空へと、再びアーチに視線を引き戻し、柱から海・空へと画面の隅々に視線を這わせるための仕掛けだろうか。「線」は鑑賞者に画面の中を飛び回ることを可能にするプログラムかもしれない。
「線」以前に、「流木」も空想の産物だろう。「ただの風景」「名もない風景」に架空の構造物――例えばクラウディア水道橋のアーチ――がポケモンのモンスターよろしく突然立ち現われるのが、拡張現実時代の風景画なのだ。「只空ニ歩行スル間ニ不意ニ其目ニ」見えて来るヴァーチャル「グランド・ツアー」としての絵画だとすれば、風景画の伝統に正しく連なっていると言えまいか。