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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 倉敷安耶個展『腐敗した肉、その下の頭蓋骨をなぞる。』

展覧会 倉敷安耶個展『腐敗した肉、その下の頭蓋骨をなぞる。』を鑑賞しての備忘録
銀座 蔦屋書店 アートウォールにて、2023年7月22日~8月11日。

キリスト教絵画の「マグダラのマリア」のイメージを仏教絵画の「九相図」の観点で捉え直した作品《九相図》を中心に構成される、倉敷安耶の個展。

英一蝶作とされる、小野小町の遺体が朽ち果てる様子を描いた《九相図》の9つの場面を刺繍生地に転写して130mmの刺繍枠に嵌めた円形絵画9点を縦に連ね、植物を刺繍した紗を恰もマグダラのマリアのヴェールのように被せた《ドローイング #九相図》が、「九相図」と「マグダラのマリア」とを結び付ける役割を果たしている。

 東洋には、死体が腐敗し白骨となるまでを9つの相で表す、九相図(九想図)と呼ばれる絵画がある。これは、死体の変化を9段階に分けて観想(いわばイメージトレーニング)することによって自他の肉体への執着を滅却する、九相観(九想観)という仏教の修行に由来する主題である。「相」は眼で見たイメージの世界、「想」は心で観じたイマジネーションの世界。九相図には、その2つの意味が交錯している。(山本聡美『増補カラー版 九相図をよむ 朽ちてゆく死体の美術史』KADOKAWA〔角川文庫〕/2023/p.3)

「九相観とは第一義的には脳内に記憶した死体のイメージに基づいて行うべき修行であ」り、「それを補完するために実物を見ることも必要とされた」が、「本物の死体の代わりに、死体を描いた絵画を用いることも想定」されていた。九相図は、「九相観を行う補助具として描かれた絵画」であり、「在家者にとってその制作自体が善行として位置付けられるものであった」(山本聡美『増補カラー版 九相図をよむ 朽ちてゆく死体の美術史』KADOKAWA〔角川文庫〕/2023/p.41参照)。
平安時代後期成立と目される『玉造小町子壮衰書』は、裕福な商家の娘として贅沢の限りを尽した老女が、身内の相次ぐ死により零落し、老いて孤独と貧困に苦しんだ末、己の罪業を悟って発心するという物語である。この物語の老女が小野小町とする解釈が中世に広まり、鎌倉期の『十訓抄』では小野小町の伝説として採録され、室町期には謡曲卒塔婆小町」へと展開するに至った(山本聡美『増補カラー版 九相図をよむ 朽ちてゆく死体の美術史』KADOKAWA〔角川文庫〕/2023/p.96-99参照)。
「花の色は」に代表される小野小町の秀歌には、「若さと美しさの絶頂にありながら、恋という頼りないものに翻弄されて、たちまちに人生の盛りが過ぎてしまうという寂しげな予兆が満ちて」おり、「若さから老いへ、美から醜へと転じていく数多くの小町伝説」を生むことになった。大江匡房が編纂した有職故実書『江家次第』には、在原業平が奥州で小野小町の屍を探したところ、「夜通し『秋風の吹くにつけてもあなめあなめ』との声が聞こえた。翌朝、目から薄(『江家次第』では野蕨とする)を生やした小町の髑髏を発見し、哀れに思い『小野とは成らず、薄生ひける』と下の句を付けた後、手厚く葬ったとの」逸話が紹介されている(山本聡美『増補カラー版 九相図をよむ 朽ちてゆく死体の美術史』KADOKAWA〔角川文庫〕/2023/p.104-105参照)。

 生前の虚飾への悔恨を髑髏となった死後の小町が読むというこの奇怪な物語が、小町絵と九相図を結び付ける結節点であったのではないだろうか。美貌の歌人小町の栄華と零落、そして野ざらしの髑髏による詠歌という2つの物語の間を結ぶイメージとして、美女の死体が滅びていく九相図は最適である。近世にいたって登場する「小野小町九相図」の揺籃を、このような中世説話の中に見出すことができるのである。(山本聡美『増補カラー版 九相図をよむ 朽ちてゆく死体の美術史』KADOKAWA〔角川文庫〕/2023/p.106)

《ドローイング #九相図》などの作品が掛かる壁の前の台には、火山岩の石ころを並べた中に、枯れ薄が置かれている。枯れ薄は、「野ざらしの髑髏」としての小野小町アトリビュートである。

小野小町が『玉造小町子壮衰書』に登場する、贅沢の限りを尽した後に己の罪業を悟って発心する老女と混淆されたという点に、小野小町マグダラのマリアとを結び付ける鍵がある。マグダラのマリアもまた、教皇大グレゴリウスによって、『ルカによる福音書』に登場する「罪深い女」や、『ヨハネによる福音書』のマルタの姉妹ベタニアのマリアと同一視されることで、罪を犯し、悔悛する女性となったからである(岡田温司マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』中央公論新社中公新書〕/2005/p.25参照)。

《九相図》(727mm×910mm)は、ティツィアーノの《悔悛のマグダラ》を織物にプリントした作品である。

 この絵〔引用者註:ティツィアーノの《悔悛のマグダラ》〕でまず誰もが驚くのは、聖女が、ヴィーナスとも見まがうような豊満な裸体で登場することであろう。事実、その仕草は、「恥じらいのヴィーナス(ウェヌス・プディカ)」と呼ばれる古典美術の累計に基づいている。さらに、この聖女のシンボルである豊かで美しい髪が、その肌をやさしく愛撫するかのように上半身にまとわりついている。その出で立ちから判断して、サント・ボームの洞窟に引きこもり、瞑想と苦行に身を捧げている聖女の姿を表現したものであることは、明らかである。それにもかかわらず、この絵では、苦しみや痛みの跡をとどめるものは、どこにも見当たらない。天を仰ぐ潤んだ瞳と、かすかに開いた唇は、むしろ、神への愛の言い知れぬ喜びを表しているようにすら見える。マグダラの持物である画面左下の香油の壺がなければ、おそらくは、当時の鑑賞者にとっても、聖女として同定することは困難ではなかったか、と疑ってみたくなるほどである。(岡田温司マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』中央公論新社中公新書〕/2005/p.148-149)。

ティツィアーノよりも後の世代のカラヴァッジョは、《悔悛のマグダラ》を一方では内省的な少女として、他方では官能的な女性として描いている(岡田温司マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』中央公論新社中公新書〕/2005/p.i-iv参照)。

伝統的に、日本の九相図には女性の死体が描かれてきた。観想の主体は全て男性で、女性の死体は一方的な眼差しの対象とされ、女性のあられもない死に様を眺めることのできるポルノグラフイックな絵画でもある。(作家による本展ステートメントより)

《ドローイング #九相図》において、作家は小野小町の画布に、花の刺繍を施す。死してなお、薄≒男根に貫かれてきた(陵辱されてきた)小野小町の手当てをする。死穢の禁忌を犯して救いの手を差し伸べるのは、善きサマリア人に擬えられよう。
マグダラのマリアもまた、小野小町同様、ポルノグラフイックな視線が向けられてきたことを、作家は転写の際に生じる罅割れだけでなく、画布に空けられた穴によって表現している。マグダラのマリアが横倒しにされているのものレイプのメタファーだろう。作家は、花の刺繍により、傷つけられたマグダラのマリアを手当てするのである。