可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 大槻香奈個展『"STAY HOME"と蛹の時』

展覧会『大槻香奈展「"STAY HOME"と蛹の時」』を鑑賞しての備忘録
日本橋三越本店本館6階コンテンポラリーギャラリーにて、2021年1月20日~2月1日。

主に少女をモティーフにした絵画作品31点と立体作品1点で構成される大槻香奈の個展。

《暇を描く》(2020)は、テーブルに肘を載せ、わずかに右側に顔を傾げて正面を向く女性の肖像。セーターには蝶ネクタイとともにポンポンがあしらわれ、女性の姿は、ピンクとブルーを中心としつつも明度が抑えられている。それは、女性の背後に並べられた鉢植えの大小の観葉植物とブラインド(面格子?)との間から射し込む目映い光のためだ。ブラインド(面格子?)の作るストライプは鉄格子を連想させ、外出できない状況を訴えている。ポンポンは新型コロナウィルスのメタファーであり、人物(の表情)が逆光により陰に表されているのはパンデミックの世界を愁えてのことだろう。女性には作家(画家)の姿が重ねられている。白い絵具の線が大きな波形を描いて女性の胸から流れ出ているのは、画家のヴァイタルサインに違いない。

《あたらしい音》(2010)では、湖を取り巻く山並の上に広がる青空に、セーラー服を着た女性が右を向き耳を見せている。髪の毛でその表情は窺えない。赤いスカーフが長く延びて波打ちながら女性の胸元から入り込み左肩の方へ抜けていく。その周囲にはファンがいくつも描き込まれている。風を集める(あるいは送る)ことで波を起こしているのだろう。音は波であるから、女性の身体に流れ込む波打つスカーフが音のメタファーなのだ。画面下部に表された「明鏡止水」の湖面に対し、画面上部には星々が瞬く宇宙が描かれている。音のない地上に小波を立て、音の伝わらないはずの真空の天上に音を響かせる。この作品においては、音とは、絵画表現のことではないか。より多くの人へ作品を届けようとする作者の姿勢が覗われる。

デビュー以来「日本の中心のなさ(空虚さ)」をテーマに制作してきた作家は「少女」を繰り返し描いてきた。「日本の幼さを象徴するものとして、また自身が少女時代に抱えていた日本的生き辛さ(大人になれなさ)が動機となり、感情移入があって向き合ってきた」という。少女をモティーフとした作品を展観する本展において、《種子のあとさき》(2011)、《ずっといい》(2012)、《整列07》(2015-2021)、《春2021》(2020-2021)など、少女たちはセーラー服をまとって描かれているものが目立つ。セーラー服は、女子高校生のアトリビュートである。もっとも、セーラー服が水兵(男性)の軍服でもあることを考慮すれば、セーラー服は着る主体を選ばないとも言える。すなわち、セーラー服は許容性の極めて大きい(あるいは互換性が極めて高い)衣装なのだ。この許容性ないし互換性を空虚と言い換えることもできそうだ。大ヒットした映画『君の名は。』(2016)を持ち出すまでもなく、漫画、ドラマ、映画などで女子高校生を主人公にした作品が多いのは、セーラー服≒「女子高生」という空虚に、それぞれの願望や欲望を投影することが容易だからではないだろうか。セーラー服≒「女子高生」という空虚があたかも台風の目のように機能して、人々を巻き込んでいくのだろう。作家もまたその空虚さを自家薬籠中の物とすることで、制作を重ねてきたのではなかろうか。
会場には、《家の光》(2021)など、少女をモティーフとしていない作品も見られる。その1つが《ここからすべて》(2021)だ。画面の3分の2以上は断崖なのか瓦礫なのか判然としない何かに覆われている。エドヴァルド・ムンクの壁画《太陽》を思わせるような光線が、断崖だが瓦礫だかの向こうにある光の円から放射状に延びている。新型コロナウイルスを太陽コロナへの連想から曙光に擬えたのではなかろうか。キュクロプスかもしれない。人々を巻き込む威力では、セーラー服≒「女子高生」とは比べものにならないほど強力な「台風の目」である。だからこそ、作者は、その力をこそ制作に組み込もうとしているのではなかろうか。