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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『走るレストラン 食堂車の物語』

展覧会『走るレストラン 食堂車の物語』を鑑賞しての備忘録
旧新橋停車場 鉄道歴史展示室にて、2020年10月13日~2021年2月7日。

食堂車の歴史を紹介する企画。「Ⅰ.食堂車の始まり:1860年代から1900年代初めまで」、「Ⅱ.鉄道国有化後の食堂車:1900年代初めから1940年代半ばまで」、「Ⅲ.食堂車の廃止と復活:1940年代半ばから1950年代半ばまで」、「Ⅳ.食堂車の時代:1950年代半ばから2000年代まで」、「Ⅴ.食と鉄道の新しいカタチ」の5章で構成。解説文を掲載したパネルが壁面に掲示されるとともに、実物資料や刊行物などが展示されている。比較的地味な展観ではあるが、各時代を代表する食堂車の再現イラストを拡大して掲示することで、食堂車の変遷を一瞥でとらえることができるよう工夫されている。

【Ⅰ.食堂車の始まり:1860年代から1900年代初めまで】
食堂車は、1860年代に、長距離列車の旅客サーヴィスとして、アメリカで誕生した。日本では、1899年5月に山陽鉄道(現在のJR山陽本線)の京都~三田尻(現在の防府)間で食堂車が連結されたのを嚆矢とする。石炭レンジ(クッキングストーブ)や石炭箱を厨房に設置していた。私鉄にあって官鉄にないのはおかしいとの要望もあり、1901年、所要17時間の新橋~神戸間に食堂車が連結されることとなった。但し、箱根(国府津~沼津)越えと逢坂山(馬場~京都)越えに当時の非力な機関車では対応できないため、新橋~国府津、沼津~馬場、京都~神戸で食堂車が連結された。その後食堂車は普及していくものの、洋食のみの提供であったため、ナイフやフォークを使える富裕層や上流階級の利用に限られていた。

【Ⅱ.鉄道国有化後の食堂車:1900年代初めから1940年代半ばまで】
軍事輸送のため全国で一元的な運営が必要となり、1906年にすべての鉄道が国有化された。三等急行列車に和食堂車が連結されることとなった。食堂車の大衆化が進んだが、窓側縦列式で同伴者との会話が困難で、かつ利用時間が30分に制限されていたため、客には不評だったらしい。1912年には日本初の特急列車が新橋~下関間を25時間で結んだ。下関から関釜連絡線に乗れば、果てはヨーロッパへと運んでくれる列車でもあった(因みに、日本初の鉄道が新橋横浜間に開通した1872年は、ジュール・ヴェルヌ(Jules Verne)の『八十日間世界一周(Le tour du monde en quatre-vingt jours)』が新聞に連載された年でもある)。1925年に至り、車両の大型化(車体幅の拡大)に伴い、和食堂車もテーブルと椅子を利用した洋食堂のレイアウトに変更された。TR37形三軸ボギー台車のスシ378000形の食堂車の厨房には、石炭レンジや氷冷蔵庫が備えられていた(冷房は扇風機である)。昭和初期の不況下では、旅客を誘引するため、東京~下関間の特急に「富士」や「桜」(1929年)、東京~神戸間の特急に「燕」(1930年)といった愛称が付けられた。1930年からは白いエプロンの女性の接客係が登場して好評を博した(因みに、銀座に日本初のカフェ「カフェー・プランタン」が開業したのは1911年。和服に白いエプロンという女給のスタイルは1915年頃からという)。1937年に日中戦争が勃発、1938年には6つの事業者を統合して日本食堂株式会社が成立。

【Ⅲ.食堂車の廃止と復活:1940年代半ばから1950年代半ばまで】
1941年の金属回収令により鍋、釜、ナイフ、フォークも供出された。その後、戦争の激化により、1944年に食堂車は廃止され、三等座席車として利用された。厨房の設備の一部が残され、代用食である五目弁当や鉄道パンの販売に利用された。敗戦後、窓の下に白い帯が入った連合国軍専用車両として食堂車は復活した。1949年には日本国有鉄道が発足、特急列車も「へいわ」(後に「つばめ」に改称)で復活し、食堂車も5年ぶりに復活した。特急「つばめ」や特急「はと」の食堂車でサーヴィスを行う「つばめガール」や「はとガール」が活躍。1951年カシ36形食堂車の厨房には、電気レンジ(渦巻き状の電熱線を埋め込んだもの加熱調理器)が導入された(カシオペア紀行の食堂車では今でも使用されているらしい)。

【Ⅳ.食堂車の時代:1950年代半ばから2000年代まで】
鉄道技術の革新による高速化に伴い所要時間が短縮されると、喫茶・軽食のためのビュフェが導入される。1958年の特急こだまには、電気コンロ、電気冷蔵庫、電熱式熱燗器、ジュースクーラー、アイスクリームストッカー、コーヒーメーカー、トースターなど当時最先端の調理器具が導入されていた。1961年に東京~大阪間を結んだ「なにわ」や「せっつ」にはすしカウンターが設置されていたという。また、1961年に開発された東芝の電子レンジの1号機はサハシ153に試験設置され、1962年から急行「彗星」(オシ16)のビュフェで本格的に稼働した。1968年の「ヨンサントオ」(昭和43年10月を指す)ダイヤ改正で特急が大増発となったが食堂車では需要をまかなえず、また停車時間の短縮や窓の問題から、ワゴン車による車内販売が始まった。食堂車のピークは1970年代のこと。全盛期を象徴する「ブルートレイン」(寝台特急)の「あさかぜ」は「走るホテル」と称された。その20系客車の食堂車は空気バネ台車で、電気レンジや電気冷蔵庫、水タンク、流しなどが用意されていた。その後、鉄道の高速化による乗車時間の短縮や従業員確保の問題などから、食堂車は次第に姿を消していった。

【Ⅴ.食と鉄道の新しいカタチ】
食堂車は豪華列車で復活した。食堂車は再び富裕層のものとなり、先祖返りを果たす。

先日、「ムーンライトながら」が2020年3月の運行をもって終了となったことが報じられた。あたかも独居老人の孤独死が10ヶ月後に判明したかのようだ。「鉄道は世に連れ」である。豪華列車に設けられた「密室」の「オープン」キッチン。限界集落には目もくれず絶景を搾取する。食堂車が富裕層のための存在に先祖返りを果たしたのも、格差社会を反映したものだろう。駅ナカへの囲い込みは駅前の衰退を加速し、終電の繰り上げは社会の活力の減退を象徴している。1964年は東京で国際的総合スポーツイヴェントが開催された年であり、新幹線の開通の年でもあった。国際的総合スポーツイヴェントが商業化の果てに死んでしまったように、鉄道も公共性を失って死んでいくだろうか。昭和の夢の遺物である中央新幹線の行く末は、新感染列島の未来と重なるだろうか。