可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 伊津野雄二個展

展覧会『伊津野雄二』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー椿にて、2023年10月28日~11月11日。

高さ110cmに及ぶ松材の仮面《現在〈マスク〉》の他、女性をモティーフとした木彫とテラコッタ全16点で構成される、伊津野雄二の個展。

《マーテル オムニウム》(130mm×120mm×40mm)は、チュニック姿の女性の膝上辺りまでを表わしたテラコッタ。頭から流れる髪と女性が左右に垂らした手を心持ち拡げることで正面からは三角形の形になる。腕と身体との間には黄色い花が生えている。万物を生じさせる母(māter omnis)を表現するのに未来に放たれる尖矢の如き三角形がふさわしい。

 3は、世界をかぞえるうえで、本当の意味でのスタート地点だ。1はシネ・クア・ノン(必須条件)――つまり私で、今日で、現在だった。2で初めて状況が少し複雑になる――つまりあなたで、そばで、次だった。ところが3は、向こう、遠く、ほかの人たち、外の世界、ひいては宇宙になる。諺にいう「ふたりなら仲間、3人なら他人」のとおりだ。
 (略)
 シュメール人は、まさにその違いを際だたせていた。彼らの言語で「ゲス」は1だけでなく、男、雄、勃起したペニスも意味していた。「ミン」は2と女性を表わしていた。3を意味する「エス」は、複数を示す接尾語の役目も果たした。これは、英語で複数形につく語尾sやesによく似ている。すると、2までは男と女のようなペアで、3から「たくさん」が始まることになる。3は単数や両数(ふたつ)ではなく、多数のしるしなのである。(略)
 「たくさん」を認識することは、抽象的な数の理解の土台となる。1や2や3は、かぞえる対象とじかに結びついているだけでなく、数自体の意味で存在するのである。数があれば、なんでもかぞえられる。数は、触ったり見たりできるものとは別個に存在する、抽象概念なのだ。こうして1は、「1なるもの」となる。
 (略)
 とうとう3にして、ピタゴラス学派は数を見出した! しかも、とんでもない数にたどり着いた――その諸部分の分析によって、ある種完全な数と彼らは考えたのだ。ピタゴラス学派にとって、1は始まりで、2はあいだで、3が終わりだった。3には、それらすべてがそろっていたのである。
 ピタゴラス学派は、1を数とは見なさなかった。そんため、奇数は男性の数という見方をした彼らにとって、3が最初の男性数だった。3はまた、統一を示す1と分裂を示す2とを合わせた調和の数でもあった。
 (略)
 だが何はさておき、3は親密さや魔力やパワーが最も強い。それは、3が子どもにあたる数だからだ。母親、父親、そしてこどもがそろうと3になる。つまり、3は未来のための数なのだ。(バニー・クラムパッカー〔斉藤隆央・寺町朋子〕『数のはなし――ゼロから∞まで』東洋書林/2008/p.57-72)

マーテル・オムニスに通じるテーマを扱うのが、左腕に当てた手で花を持つ女性として象られた大地母神の《キュベレ》(350mm×230mm×150mm)である。楠材による上半身像の着衣として施された茶色は大地を表わすのだろう。手にした花は左腕と接着することで、植物の象徴する生命が大地に潜んでいることが示される。髪に挿した簪から垂らされる緑の輪には葉と花とが表わされ、生命の循環を象徴する。

《日の傾き》(700mm×340mm×160mm)は樟材の女性の立像。上半身と下半身との間には陽差しを表わす赤い棒が接着されている。上半身下部が楔型をして、それを枘穴のように受ける下半身上部はV字となっている。その上半身と下半身の接合部がずれることで「日の傾き」が表現されている。時の循環であり、調和へ向けた運動でもある。類例として、下半身に切れ込みが入った楠材の調整像《平衡点》(400mm×130mm×120mm)も併せて展示されている。

《bleath》(500mm×140mm×130mm)は、右の掌を口先に持ち上げ、口を窄めた女性の立像(作品に付せられた題箋と異なるが、以下では題名を"breath"と考える)。息を吹く姿を通して呼吸を表現している。呼吸も生命の活動にとって不可欠である。頭部に植物を巻き付けた女性の座像《萌し》(310mm×90mm×120mm)でも、女性が右手を口元近くに差し出している。生命の活動を促している。

椅子に坐り、膝の上に本を開き、積み重ねた本に右肘を突いて瞑想する女性を表わした《グリーンブック》(350mm×90mm×90mm)、やはり座った女性が膝の上の帳面に植物で思い出し思い出し書き付ける様を描く《メマント》(310mm×80mm×180mm)、頭頂部に樹木と倉庫とを載せた《記憶》(330mm×130mm×150mm)などは、植物(=生命)が実は記憶(媒体)であること――例えば、映画『アフター・ヤン(After Yang)』(2021)のように――を想起させる。

女性立像《syntax》(1750mm×750mm×800mm)では、女性の下半身が細い板を並べた形で表現されている。文を整然と並べ(táxis≒ordering)調和(syn≒together)をもたらす仕組み(統語)が表現されている。それは、生命の調和にも通じる。

会場で異彩を放つ巨大な顔《現在〈マスク〉》(1100mm×530mm×350mm)。その顔もまた、目・鼻・口などの凹凸を表わした13枚の松の板を横に並べることで構成されている。《syntax》と併せて見れば、人が言葉によって形作られることを表わすのかもしれない。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(『ヨハネによる福音書』第1章第4節)とするなら、《現在〈マスク〉》は生命であり、光である。そして、『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(『ヨハネによる福音書』第1章第1節)のならば、《現在〈マスク〉》が生命を象徴する他の全ての作品を照らし出す存在として構想されているのだろう。そこに巨大さの所以がある。