可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 中村桃子個展『nestle』

展覧会『中村桃子個展「nestle」』を鑑賞しての備忘録
Lurf MUSEUMにて、2023年10月5日~30日。

女性や植物をモティーフとした絵画と焼き物とで構成される、中村桃子の個展。2階ではキャンヴァスに描いた作品と焼き物(27点)を、1階のカフェでは紙に描いた作品(18点)を展示。

表題作《nestle》(1620mm×1303mm)は、草地に並んで腰を降ろし寄り添っ(nestle)ている2人の女性を描いた作品。ダルメシアン柄のワンピースの女性に、濃紺のワンピースの女性が凭れ掛り、左手を右胸に回している。2人の女性の背後(画面左上)ではピンクのワンピースの女性(少女? 腹部から下しか見えない)が、赤い如雨露で水を遣っている。その緑の植物は蔓のように茎を伸ばし、2人の女性の胸を貫いて3輪の白い花を咲かせている。2人の姿は、ケイト・ブランシェット(Cate Blanchett)がキャロルを、ルーニー・マーラ(Rooney Mara)がテレーズを演じた映画『キャロル(Carol)』(2015)を彷彿とさせなくもない。2人は恋仲にある。背後の女性(少女)が水を遣ることで伸びた植物が2人を貫くのは、おそらくはクピードー(アモル)が矢を放つ役回りを果している。3輪の花が咲くのは、恋人たちだけでなく、彼女たちの姿によって「クピードー」にもまた幸せがもたらされたためではなかろうか。
クピードー(アモル)を連想させる作品として、《日常の景色》(652mm×803mm)がある。横たわっているピンク色の肌の女性の背後から迫る、ペールオレンジの肌の女性が、白い花束(3輪の花)を差し出す場面が描かれる。花束を持つ女性の背後にもくもくと湧く雲が翼のようであり、クピードー(アモル)とプシュケの物語――フランソワ・ジェラール(François Gérard)の《プシュケとアモル(Psyché et l'Amour)》あるいはジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David)の《アモルとプシュケ(L'Amour et Psyché)》』――を想起させる。
また、トリオを描く作品としては、《lovers》(606mm×606mm)がある。正方形の画面には、右上から右下の対角線を挟むように2人の女性が顔を寄せ合っている。2人の背後(画面右上)には別の女性の顔(鼻と口と)が覗いている。そして、3本の花が画面下部から伸びている。あるいは、《flower in the sky》(910mm×1167mm)には、草叢に横たわって見つめ合う2人の女性の顔と、彼女たちに落ちた花の影とを描かれている。花の影は、俯瞰する第三者(たち)である。3とは必ずしも2つより1つ多いというだけではない。「たくさん」を表わす(だから影が6つ描かれていても不思議はない)。

 子どもは、1と2の違い――単数と複数、「1」と「1よりひとつ上」との違い――を早い時期に覚える。だがその先に進みだすと、ときに3を跳び越して、1、2、4……などとかぞえる。3は、2より理解するのが難しい。そして、この難しいことを飛ばす子どものやり方は、実は上位の概念の把握の仕方を示している。2のあとに来るのは「たくさん」で、そのギャップが違いを際だたせているのだ。(バニー・クラムパッカー〔斉藤隆央・寺町朋子〕『数のはなし――ゼロから∞まで』東洋書林/2008/p.58)

ひょろ長い茎を伸ばす植物は、3つ=「たくさん」と結びつくことで生命の連なりを表す唐草文様となる。

 唐草は古代エジプト時代に始まるといわれる数千年の歴史を持つ人類の普遍的なイメージである。その流麗な文様は曲線を蛇行させた茎を中心に、そこから派生し絡み合う枝、葉、花びらがひとつの単位となり、反復し、連続し、変形し、増殖しながら生命そのもののリズムとパターンを生み出してきた。
 唐草は草花文様の一種と考えられるが、重要なのは文様そのものというより縦横無尽に空間を埋め尽くしてゆくかのようなその潜在的なエネルギーだろう。先端をどこまでも延ばしてゆく蔓性の植物がモチーフとして多様されるのも唐草の中心テーマが潜在的な生命力であることのあらわれである。蔓は文様を連続させ、パターンを生成し、リズミカルなイメージの美を生みだすことができる。(伊藤俊治『唐草抄 装飾文様生命誌』牛若丸/2005/p.8)

伸びゆく芽は遍在する目に連なるようだ。《暗闇の中でしか見えないもの》(1455mm×1120mm)では、暗闇の中でピンクの衣装の女性が右手に花を手にしている。対生の葉に目が映り込むとともに、中空にも目が浮いている。女性は花の化身なのだろう。そして葉(葉緑体)も目も、光を受けて機能しているという点では同じである。葉の数だけ目があると考えるのも強ち不自然ではあるまい。また、闇に浮かぶ目については、自らを俯瞰する目(=私)と捉えることができる。

 (略)眼にははじめから、自身から離れて自身を見る能力が、付随していたと考えなければならない。そうでなければ見る意味がない。これと、相手の視点――母の視点、父祖の視点、敵の視点――に立つという能力は、不可分であると思える。捕食する、捕食される、番う、番われる、追う、逃げるは、自己保存、種族維持にじかに関わる以上、見ると同時にはじまった快楽であり苦痛であると考えなければならない。
 (略)
 いわば、生命は眼の獲得と同時に、自分から離れることを強いられたのである。この距離、この隔たりが、精神といわれるもの、霊といわれるものの遠い起源であることは、私には疑いないことに思われる。
 私とははじめから、相手のこと、外部のこと、なのだ。鳥が魂の比喩として登場するのは当然なのだといわなければならない。私とは外部から私に取りついたもののことなのだ。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.206)

《MY ROSE》(1620mm×1303mm)には女性が子鹿のような生きもの"ROSE"を抱えている。ROSEにはたくさんの目が、恰も土星の輪のように、頭部をぐるりと一周している。ROSEを中心に描いた《ROSE in the night》(1167mm×910mm)、あるいは焼き物《ROSE》(245mm×195mm×185mm)ではよりはっきりと目が頭部の周囲を連なっているのが分かる。360度ぐるりと世界を眺めるROSE=薔薇(≒愛)は、私を超える力の象徴であろうか。