可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『愛にイナズマ』

映画『愛にイナズマ』を鑑賞しての備忘録
2023年製作の日本映画。
140分。
監督・脚本は、石井裕也
撮影は、鍋島淳裕。
照明は、かげつよし。
録音は、加藤大和。
美術は、渡辺大智。
装飾は、塚根潤。
ヘアメイクは、豊川京子。
衣装は、宮本まさ江
編集は、早野亮。
視覚効果は、若松みゆき
音響効果は、柴崎憲治。
音楽は、渡邊崇

 

映画監督の折村花子(松岡茉優)がマスクをして、カメラを手に街を巡る。高架を走る京急の車両、ゲートボールで打たれた球、花壇の花、回転する風車、ベランダの洗濯物、歩道橋を下りる人の足元。花子が集めているのは赤いモティーフ。公園のブランコで休んでいると、赤い服を着たカップルが通りがかり、すぐさま2人の後を追ってカメラを回す。
横浜近郊の海辺の町。青いビニールシートを被せて土囊で抑えた屋根など、老朽化著しい家屋。夜9時前。雷鳴が轟く。折村治(佐藤浩市)が娘に電話をかける。お父さんです。話があります。花子が出ないためメッセージを残す。また出ないのか。治の友人で海鮮食堂を営む則夫(益岡徹)が気遣う。何やってるのか。ウィキペディアによると映画監督らしい。あの娘が映画? 本当かそれ? 
高い建物の手摺から男が飛降りようとしている。野次馬が集まり、スマートフォンを男に向ける。見せ物じゃありません、撮るの止めてもらっていいですか! 警察官が訴えるが、見物人たちは意に介さない。逝っちゃえ。女子高校生の2人組は嬉々としている。それいけ! 老人が叫ぶ。やるなら早くしろ、馬鹿たれ! 腹が減ってんだ! オレンジ色のユニフォームのレスキュー隊員が男を確保。自殺は未然に防がれた。止めたの? マジ? 時間無駄にしたわ。野次馬たちはぼやきながら現場を後にする。居合わせた花子は一部始終をカメラで捉えていた…と思ったが、カメラの不調で撮れていなかった。動顚する花子。そのとき、目の前を赤い自転車に乗った男(窪田正孝)が通りかかる。男の口は小さな布マスク――アベノマスク――に覆われていた。花子は追いかけようとして見失う。
アベノマスクが自転車を漕ぐ。向かったのは食肉処理場。作業着に着替えて仕事場に入る。おせーぞ、始まってんだ! すいませんでした! 吊された牛肉の塊がレールを流れてくる。男は肉塊を降ろして台の上に載せ、ナイフで骨を取り除き、肉を切り分けていく。
会議室。プロデューサーの原(MEGUMI)が、台本が良かったと花子を褒める。自殺未遂のシーンで、野次馬の老人が「やるなら早くやれ、腹減った!」とか、人物造型が意味分かんないんですよ。そんな人間いませんよね? 助監督の荒川(三浦貴大)が疑問を呈す。実際に見たんです。花子は証拠となる映像を見せようとカメラを取り出して思い出す。…そうだ、撮れてないんでした。カメラが不調で…。荒川は、花子の書いた科白は命を軽んじていると非難する。だがパンデミックの街を歩き回ってカメラを回してきた花子には思うところがある。命は軽んじられてるんです。老人はコロナ禍で苦しい生活を強いられて、それで飛降りるところを見たかった…。監督、頭おかしいよ。言下に否定する荒川。折村花子さん、もう少し、人間をよく見て、ね。原がその場を収める。場所変えて、呑みながら話しましょうか。協力金で店閉めてるところばかりだから、荒川君、空いてるところ、調べてもらえる?
原と荒川が花子の部屋に押しかけて宅飲みをしている。この監督は才能あるって、私がデビューさせることにしたの。制作費が1500万じゃ少ないけど、後は私たちの強い気持ちね。今まで自費で撮ってましたから。花子にとって1500万は夢のような金額だった。荒川君は信頼してる助監督だから。荒川君、いろいろと教えてあげてね。大変な世界に入ってきたね。折村さん、理由言える? 夢でしたから。お金も少し欲しいです。とにかくお金無いんです。折村さん、お金の話、多いよね。制作費、少ないとか思ってんじゃねえの。コロナ禍で仕事もなくなり、家賃も支払えなくなっていた花子は、事実、手元不如意だった。私、映画の中にある赤が好きなんです。いつも素敵な赤を探してるんです。なぜ赤が好きなの? ただ赤が好きなんです。それ、幼稚過ぎますよ。理由なくて映画が撮りたくて、理由なくて赤が好きって。素直でいいんじゃない。『消えた女』ってタイトルも抜群にいいわね。私の家族の話です。消えた女は私の母のことなんです。お母さんが消えた理由は? 突然消えたんです。20年以上も前のことですけど。意味不明ですよ。理由なく母親って消えるもんでしたっけ? 母が消えて、突然、私の世界が変わったんです。ありえません。僕が付いてきた監督は必ず理由のある画を撮ってました。理由を求める荒川に対して理由のない花子。荒川の言葉が怒気を含んできた。カット! この業界ってすぐ言い合いするの。でも映画ってカットして編集できるからいいのよね。原が雰囲気を和ませようとする。すいません、話しを蒸し返しますけど。「やるなら早くやれ、腹減った!」って言った人、確かに存在したんです。意味分かんないよ。意味不明。理解できるんですよ。面白いですね。突発的なことってあるじゃないですか。コロナ禍になって多くの人が苦しんだのもそうですよ。で? 一目惚れとかだってあるじゃないですか。急に恋バナ、女子だねえ。理由と意味は絶対必要。監督は若いから仕方ないんですけどね。現場で居場所なくしますよ。業界のやり方、長い歴史と伝統があるんです。荒川が花子を諭す。カットしてお開きにしようと原が切り上げる。荒川はタクシーを呼んできますと先に出ていく。荒川君は優秀な助監督だから気にしないで。これからは女子が活躍しなきゃいけない時代だから。人間よく見て。去り際に原が花子に告げる。原が出て行くと、花子は玄関で崩れ落ちる。そこへ荒川が戻ってきた。帰りましたよ、アレ。さっき言った小言は全部噓です。プロデューサーの手前、ああいうしか無くて。そういうながら部屋に上がろうとする荒川。下心ある荒川を花子がブロックする。荒川は舌打ちして立ち去る。

 

COVID-19によるパンデミック下の東京。映画監督の折村花子(松岡茉優)は、20年前に姿を消した自らの母を描く映画『消えた女』を構想していた。職を失った花子はせめて映画の素材を撮り溜めようと、カメラを手に街を歩き回り、赤いモティーフを探す。偶然、高い建物から男が飛降りようとする場面に行き当たった。野次馬が男にスマートフォンを向けている。レジ袋を持った老人が、やるなら早くしろ、腹が減ってんだと叫び、笑いが起こる。飛降りようとしていた男がレスキュー隊員に確保されると、野次馬は愚痴りながら現場を後にした。花子はカメラを回していたが機材の不調で録画できていなかった。落胆する花子の前を赤い自転車の乗った男(窪田正孝)が通りがかる。彼はアベノマスクをつけていた。
『消えた女』の台本がプロデューサー原(MEGUMI)の目に留まり、原とタッグを組む助監督の荒川(三浦貴大)とともに花子は企画会議に臨んだ。荒川はシナリオにあった、飛降りを促すような不道徳な人物はいないと不道徳を詰った。原も人間をよく見るようにと言う。リアルを台本に落とし込んだ花子は納得できない。COVID-19感染拡大防止のため飲食店は協力金を得て休業しているため、花子の自宅で呑みながら話すことになった。幼い頃から映画を撮るのが夢で、映画の赤いモティーフが好きだという花子に、荒川は理由を求める。好きなものは好きだという花子を若く経験が無いからだと断じると、意味と理由とを常に考えるのが業界のルールだと諭す。自分の足で歩き回り自分の目で見たという自負がある花子は、突発的な偶然というリアルがあるはずだと訴えるが、人間観察ができていないといなされる。荒川は原を帰らせたあと、原の手前噓を並べていたと下心を持って再び部屋に上がり込もうとしてきたが、花子に拒絶されると、舌打ちして引き上げた。
大家から滞納している賃料を督促される花子。1500万円の映画の制作費を期待して、必死に絵コンテを描き、素材の撮影に街を歩く。シャッターの降りた商店街の片隅で酒を飲んでいた若い男の2人組が、学生服姿の少年に感染を拡大防止に協力しない非国民は出て行けと非難され、喧嘩になるのを目撃する。通りがかるサラリーマンたちが足早に立ち去る中、先日見かけた「アベノマスク」が仲裁に入る。何故か気持ち悪いと両者から煙たがられた「アベノマスク」は、男の1人に殴られ、争っていた3人は退散した。花子がバーに立ち寄って酒を飲んでいると、カウンターの端に「アベノマスク」がいた。花子は3度目の偶然に雷のように打たれ、立ち上がって思わず尋ねた。何で赤い自転車に乗ってるんですか? 

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

新進気鋭の映画監督・折村花子は、COVID-19の蔓延で仕事を失い、自身の母に纏わる作品『消えた女』の制作に賭けていた。プロデューサーの原は脚本を評価し、制作費1500万円で企画を進めることを請け合う。原とコンビを組んできた助監督の荒川は、自殺を呷る老人の描写は命の軽視であり現実を見ていないと難じ、若くて経験が無いからだと断じる。花子は、突発的で偶然なことこそ(頭の中で組み立てていない)現実では起こりうるのだと、そして、命が軽んじられていることこそが現実ではないかと訴えるが、感覚で撮ろうとする女子だと軽く遇われる。その癖、荒川は、「若い」「女子」である花子に対する欲望を隠さない。
花子は映画の素材を撮るために街を散策していて赤い自転車に乗ったアベノマスクの男に遭遇する。その男は喧嘩の場面に現われ、そして花子の立ち寄ったバーで先に飲んでいた。運命を感じた花子は思い切って男に話しかけた。舘正夫は思ったことを空気を読まずに率直な真情を吐露する人物で、その裏表のなさに惹かれる。理解されない鬱憤が溜まり酔いが回っていることもあって、花子は正夫とキスを交わす。
正夫は今は食肉処理場で働いているが、かつては同級生の落合(仲野太賀)に感化されて俳優を目指していた。落合は正夫の部屋に居候していて、しかも花子の映画に出演が決まっていた。
突発的なCOVID-19の蔓延が世界を変えた。花子は仕事を失った。家賃も払えない。自らの持てる力である映画の才能を活かして映画制作に邁進するほかない。
飛び降り自殺を図る男に、早く飛降りろと叫んだ老人は、命を軽んじている男と非難されてもやむを得ない。だが、老人もまた命を軽んじられていると感じているからこそ、他人の命を尊重する余裕がなくなっていた。老人は飛び降りを図る男に、困窮しながら生き長らえる自らの姿を重ねていたかもしれない。飛び降り自殺を図る男は、老人の鏡となる。そう花子が考えるのは、飛び降り自殺を見せ物として楽しむ野次馬を撮影する自らに、野次馬と同質の心裡を見ているからに他ならない。すると、花子に現実を見ろと叫ぶ原や荒川は、現実を見ていないのである。業界というセットの中でリアルに見えるものを求めているに過ぎない。
COVID-19の蔓延、人との出会い、病気の告知、母親の失踪。突発的な出来事(≒落雷)が人を駆動する(バラバラの家族を繋ぎ合わせるのも、ある偶然である)。家族仮に社会が理由と意味とで論理的に動くなら、全ては予想可能となるだろう。それはユートピアであるが、その原義通り「どこにもない場所」である(例外の1つが映画だ)。
リアルと偶然とに並ぶテーマが、「無かったことにしない」である。バーで花子は正夫とキスを交わす。正夫は同郷のマスター(芹澤興人)から防犯カメラ画像を見せてもらい、確かに2人がキスを交わしたことを確認する。無粋である(正夫のキャラクターだからこそ、辛うじて許される)。このエピソードは、酒を理由に無かったことにしない、あるいは無かったことにはならない、ということを訴えるためである(なおかつ、結末に関わる重要な伏線となっている)。花子は映画『消えた女』から外されることになる。花子こそ「消えた女」なのだ。だが「無粋」な正夫はそうなることを許さない。なけなしの貯蓄を出捐して自主映画『消えた女』として撮ることを花子に受け容れさせるのだ。花子に「消えた女」にならないための力を与えるのが、「消えない男」としての正夫であり、父・治である。